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255: ホワイトベアー :2022/03/16(水) 16 01 10 HOST sp1-72-9-116.msc.spmode.ne.jp 日本大陸×ワールドウィッチーズ 第二次ネウロイ大戦 セリフ集 「ここは素晴らしい!最高の研究環境が整っている!」 ドクトル・マブゼ 夢幻会から提供された潤沢な研究資金と研究設備、そして被験者の提供を受けて(※1) 「マリオネット計画、逆らわないように薬物による洗脳と催眠暗示を施した少女達を戦場に送るか・・・全く、人道という概念が抜け落ちているな。小説ならまず間違いなく悪の帝国として描かれるだろうよ」 「わが国の国際的なプレゼンテーションの向上と国民たちを守るための致し方ない犠牲だ。それに言うだろ?働かざるもの食うべからずと」 ドクトル・マブゼの研究を難民に適応するする事が決議された夢幻会会合において(※2) 「本日より第501統合戦闘航空団に配属になりました。大日本帝国空軍所属のアドレア・ボロヴィク少尉です。好きなものはお金!今一番欲しいものは日本の永住権!!日本の為に死なない程度に死ぬ気で頑張ります」 大日本帝国空軍アドレア・ボロヴィク少尉、国際連盟統合軍第501統合戦闘航空団での初めての挨拶(※3) 「36式とは違うのよ。36式とは!」 大日本帝国空軍 穴吹智子中尉、世界初の超音速ジェットストライカーユニットである43式艦上戦闘脚を使用した初の戦闘において 「戦闘機が二線級兵器とは極めて心外だな。そう思わないか相棒」 「・・・」 日本空軍第6航空師団第66戦術戦闘飛行隊に所属しているTACネームピクシーとサイファー、リベリオン合衆国の記者からの取材に対して 「何でもっと早く輸出してくれなかったのよ。あの時、これがあれば救えた人はもっと多くなっていたのに・・・」 カールスラント帝国空軍 ミーナ・ヴィルケ中佐、輸出許可が降りたため公開特許化されたエーテル・魔力変換システム搭載エンジンを搭載したBf109G-4を初めて使用した後にて 「北郷中佐、国家安全保障会議の決定により貴官にはフリーダムストライクの発令権限が与えられる。何としてでも作戦を成功させろ」 帝国空軍参謀総長、ガリア解放作戦である〔確固たる決意〕作戦を前にして(※4) ※1 ノーブルウィッチーズを知っていた原作者たちが最高の条件と三顧の礼を持って迎え入れた。 表向きは帝国大学の教授をやっているが裏では軍の支援の下に研究に励んでいる。 ※2マリオネット計画 ドクターマブゼの研究成果を活かして難民系のウィッチたちを従順な兵士にする計画。日本版ガリアの子計画と言っても過言ではない。 ただし、原作のガリアの子のように徹底した人格抹消と記憶の抹消をするのはさすがにバレる可能性が著しく上がるので、基本人格はそのままに帝国への忠誠心を向上させようとしていた。 これにより、日本は国外出身のウィッチであろうとも絶対的に帝国に忠誠を誓い、死すら恐れない便利な駒とすることに成功した。 こうした洗脳を受けた難民出身のウィッチが日本欧州派遣部隊の魔導戦力の中核を担っている。 ※3統合戦闘航空団 国連安全保障理事会直属の特殊部隊である。 各国のエース級航空ウィッチが集まって編成された精鋭部隊で501から510までの10個航空団が編成されている。 その始まりは第一次ネウロイ大戦後に編成された国連ネウロイ監視航空団であり、ネウロイ大戦初期の活躍が高く評価され、ブリタニアが主導して組織された。 基本的には所属する各国際連盟統合軍方面軍司令部の指揮下におかれているが、あくまでも国連安全保障理事会直轄の部隊であり、当初に定められた目的以外の作戦に参加させる場合や方面軍を超えての活動、部隊の新規編成、解散には国連安全保障理事会の承認が必要不可欠である。 余談であるが、国際連盟軍と各国の軍は指揮系統が明確に分かれており、原作のように統合戦闘航空団が駐在している国家が統合戦闘航空団に命令を発したり、人事に干渉したりするのは不可能となっている。 ※4 フリーダムストライク 日本帝国軍に規定されている作戦コードであり、一度発令された場合は投射可能な全ての火力が指定された場所に集中爆撃を実施する。なお、全ての投射可能な火力ゆえに戦略核兵器も当然含まれる。 256: ホワイトベアー :2022/03/16(水) 16 02 59 HOST sp1-72-9-116.msc.spmode.ne.jp 以上になります。wikiへの転載はOです。 日本がどんどん真っ黒になってくけど原作からすでにストパン世界の各国は真っ黒クロスケだからセーフ。セーフなはず
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【検索用:よーろっぱにくにつくってたかなと|登録タグ:2020年 ふくらP よ】 ふくらP「国連に入ってないのか!」 関連動画 関連項目 ふくらP
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か行 ■カガミ・ドージョー ミリオポリス第二十五区東部にある剣道場。市内で唯一本物の「カタナ」を扱いことが許可された日本系スポーツ施設。サムライ作法やゼンの精神修養のふれこみで人気を博し、著名人や政治家も訪れる国際交流の場になっている。 ■拡大的混乱の演出 クローネンブルグ文書内に記されていた犯罪手法。一人の人間を始末する必要があるとき、関係のない不特定多数を巻き添えにして意図的に混乱を作り出すことで動機を隠す。 ■カタナ 日本刀の通称。もっぱら室町時代中期以降に広まった打刀を指すものと思われる。(※現代において一般的に知られる日本刀は江戸時代以降に武器としてではなく「美術品」として精錬されていった新刀であり、海外貿易などで諸外国から評価されたのもこちらである) ■〈カプリコーン〉 米軍が開発したサテュロス・サテュリスキー型アームスーツの特注モデル。イギリス軍SAS(特殊空挺部隊)がミリオポリス市内での作戦用に導入し、駆動音の99%をシールドし隠密性が高められている。純白にカラーリングされ、甲冑や騎士に例えられている。名前の由来は山羊座の英名。 ■ガラテア・コンプレックス 特甲児童の設計開発顧問メンデル博士が考案した理論。ユニット同士がつながりあうことでターミナル・ユニットを構築する。元は市の交通管理局から依頼された数百万台の車両AIをつなぐ多重システムであったが、博士の死によって未完成となった。(※ガラテア・コンプレックスが特甲児童を襲うフロー状態を解消する鍵であるらしい) ■〈カロン〉 NEW! 三台のグライアイのうち〈意地悪(バムブレー)〉号に搭載されている犠脳ユニット。その正体はオイレン髭で死亡した秋水の生首から回収された大脳である。名前の由来はギリシャ神話に登場する冥府の河の渡し守から。 ■機械化児童 四肢を機械化された子どもを指す。いわゆるサイボーグ。超少子高齢化による労働力不足を解消するため、2016年のオーストリアでは11歳以上の児童に労働の権利が与えられており、身体障害児の機械化手術を国が無償で行うことで優れた労働力としている。ただし、代わりに機械化児童は市の所有物とみなされ、画一化のもと親から引き離され〈子供工場〉で訓練を受けたのち、社会福祉に従事することとなる。 ■犠脳体 マスターサーバーによる電子干渉に対抗するため、人間の脳を機械の制御ユニットとして用いる技術。犠脳体ユニットを組み込んだ兵器を「犠脳体兵器」と呼ぶ。また犠脳体を作るため生きたまま脳を摘出された人間は「犠脳者」と呼ばれ、犠脳者の生体活動が停止することで犠脳体は一個のユニットとして活動を開始する。 ■〈希望の会〉 日本人青年会。オーストリアに移民し、ミリオポリスの市民権を得た日本人によって構成される。ミリオポリスで暮らす日本人の生活支援を行っている組織だが、〈アンタレス事件〉以降、日本人がテロに加担したことからBVTにマークされるようになってしまった。 ■〈キャラバン〉 〈アンタレス事件〉に関わった七つのテログループのひとつ。プリンチップ社をスポンサーとする傭兵的戦術指導集団で、他のテロ組織を指揮して暗躍する。元はCIAがアフリカの紛争地域に干渉するために作ったダミーのテログループだったが、プリンチップ社に操作され国際的なテロ集団化してしまった。事件後も活動を続け、〈戦犯法廷事件〉〈空港占拠事件〉においても複数のテロ組織を指揮する。 ■旧市街 ミリオポリス第一区を指す。第一区はウィーン時代からの歴史的地区であり、環状道路〈環(リンク)〉の周囲に多くの歴史建造物が並ぶ。これら旧市街は世界遺産にも登録される観光名所となっている。また、国会議事堂や市庁舎などミリオポリス及びオーストリアの行政の中心でもある。BVT本部や各国大使館も第一区内に存在する。 ■子供工場(キンダーヴェルク) 児童福祉局の所有する「132養護施設」の通称。ミリオポリス第十一区に存在する。機械化児童専門の教育・医療・研究・育成のための総合施設であり、特甲児童はみなこの施設出身。その建物はかつては古いガソメーター(ガスタンク)であり、ショッピングタウンとして改装されたが不況で倒産し、市が買い取って児童福祉局の所有物になった。施設内では男子・女子に別れて育成され、それぞれ初等・中等・高等の三クラスが存在する。成績が優秀な者は軍や治安組織からスカウトされ、専門職コースの訓練学校へ進み特甲児童となる。 ■〈クーデター事件〉 七年前にミリオポリス市内で起こった軍によるクーデター事件。軍と警察が都市治安を巡って対立し、暴走した一部の軍人による武装占拠騒ぎにまで発展した。プリンチップ社の関与も疑われているが、主犯格であるカール・クラウス元少佐の〈リストを焼け〉というメッセージを受け取った側近たちはすべて死亡しており、事件の真相は謎に包まれている。 ■〈空港占拠事件〉 2016年5月1日にウィーン国際空港で起こったテロ事件。パレスチナ系武装組織〈赤いハヤブサ〉によるイスラエル航空機ハイジャックに始まり、〈赤いハヤブサ〉本隊及び〈キャラバン〉によって空港施設と管制塔が武装占拠された。そこへ中国から亡命してきた戦闘機とそれを追う暗殺部隊〈蟲(チオン)〉、さらに軍から脱走した特甲猟兵が加わったことで事態は一挙に複雑化し、同日に起こった〈戦犯法廷事件〉とも密接に関わる大事件に発展した。詳細はオイレンシュピーゲル肆を読んでね♪ ■〈九姉妹〉 NEW! 三台のグライアイのうち〈戦いを好む者(エニューオー)〉号に搭載されている犠脳ユニット。AP爆弾の爆発と共に息絶えた八人の犠脳少女たちの大脳が使用された最新式のユニット。なお九姉妹に対応するAP爆弾に付けられたコードネームはワグナーの舞台劇『ニーベルングの指環』に登場する九人のワルキューレから取られている。 ■〈九姉妹〉コード NEW! 特甲児童たちの脳内チップに用いられる〈501コード〉から抜き取られた4つの欠損数位に31を加えた、人格の時間面の回転に関る五つの素数。2、3、5、19、31で総和が時間面の座である60になる。カラス博士の手によって密かに〈九姉妹〉ユニットに割り振られていた。 ■〈グライアイ〉 NEW! 〈ローデシア〉の所有する電子戦ユニット・トレーラー。トラクルとハンス・クラインが乗る〈戦いを好む者(エニューオー)〉号、サードアイとシャーリーンの乗る〈意地悪(バムバレー)〉号、カラス博士の乗る〈恐ろしい(デイノー)〉号の三台が存在する。三台に搭載された犠脳ユニットがレベル4に到達することで〈外典〉の監視機構として機能するらしい。名前の由来はギリシャ神話に登場する怪物ゴルゴンの妹である魔女三姉妹から。 ■黒いダイヤ ある超高速チップの俗称。世界最高の集積回路で、アメリカの超長距離弾道ミサイルに搭載されている。 ■黒手組 イタリアの秘密結社。国際的なゆすりと脅迫のプロで、かつてバルカン半島のセルビア内にも同名の組織が存在していた。最初から二つの組織が存在したのか、ひとつだったものが二つに分かれたのか、両者の関係は不明。イタリア黒手組内には〈アルレッキーノ〉と呼ばれる過激派集団が存在し、〈リスト〉に関係した人間を抹殺している。(※セルビア黒手組は実在したテロ組織で、サラエヴォ事件を起こし第一次世界大戦を招いた黒幕とされている) ■黒天使ピクリーン 荒廃した二十五番街に突如舞い降りた天使。ねえ、正気ってなんだろう? それはピクリーンにも分かんない! ■クローネンブルク文書 かつて国際法学研究メンバーの逸材ヨハン・レオナルト・クローネンブルグが残した意見書。テロ支援組織プリンチップ社の実在と国内テロ行為への関連を警告する内容であったが、BVTには無視された。 ■幸運の弾よけ王子 イギリス第三皇太子ヘンリー王子についた異名。軍に入隊しアフガニスタンへと派兵された王子を護るため、王室が傭兵を雇ってつゆ払いを行ったため王子の参加する作戦では被害が減少したことで現地の兵士から密かに異名で噂されることとなった。王子のつゆ払いを行っていたのはミハエルら〈赤のジャック〉部隊で、王室から非公式に感謝状を贈られている。 ■国連都市(uno-CITY) ミリオポリス第二十二区に存在する国連ウィーン事務局のほか、複数の国連施設や関係者の宿泊設備が集合した地区を指す。作中ではさらに国際司法裁判所が存在し、エルファシル紛争の戦犯法廷が開廷された。世界的VIPが集う地であり、〈特憲〉によって厳重な警備体制が敷かれている。しかし、施設はドナウ川とアルテ・ドナウ川の中洲にあり、河川が増水し橋が通行不能になると陸の孤島と化してしまう。 ■国連都市広場の革命事件 NEW! アダー・ガウス神父率いる二十五番街のデモが進路を変え〝一触即発通り〟を北上。国連都市広場へ到達したところで〈ローデシア〉の襲撃に遭い、武装した黒人グループとの戦闘に発展した事件。詳細はテスタメントシュピーゲル1及び2を読んでね♪ ■国家憲兵隊 オーストリア全土の治安を守る警察組織。国家警察に相当し、各州警察や市警など地方警察では対応できない事案に対処する。国境検問所、国境監視所をはじめ四万人規模の職員がいる。MPBはミリオポリスの凶悪犯罪対処のため国家憲兵隊内に編成された組織である。 ■ケーフェル 正式名称、ツェンタオアーAⅡ型(アーツヴァイ)。MSS地上戦術班が使用する軍用機体。〝ケーフェル(カブトムシ)〟の通称は、機体から伸びる情報用アンテナがカブトムシの角のように見えることから。機体下部の装甲タイヤによる走行ほか、四本の脚部による歩行も可能。二本の腕には雷撃器を装備している。 ■接続官(コーラス) 特甲児童のうち、マスターサーバーに脳を接続し〈特甲〉の転送支援を行う転送要員を指す。接続官には接続時に意識を失う〝無意識型〟と意識を保ったままの〝有意識型〟が存在する。特甲児童は訓練時代に接続官の適性検査を行っているようで、適性が高ければ実行部隊員として配属された後でも、接続官として電子捜査に参加することが可能。 ■〈五O一コード〉 特甲児童の脳内チップに用いられているインプラント指数。由来は最初の18個の素数の和が501であることから。素数は電子的セキュリティにおいて重要な鍵となるが、特甲児童の脳内チップからは何者かによってそのうち四つ(2、3、5、19。総和が29になる数字)が引き去られている。 ■特殊憲兵部隊(コブラ・ユニット) 国家憲兵隊から内務大臣直轄の部隊として独立した特殊部隊。〈特憲〉と略される場合もある。軍用機体のほか強力な兵科を有し、国連都市や空港など重要施設の警備、各国大使など要人警護を主な任務とする。緑のベレー帽がトレードマーク。(※オイレン参&スプライトⅢ巻まではBVT直属の特殊部隊とされていた。4巻以降は上記の内務大臣直轄部隊となっている。大臣交代により指揮系統が変更されたのか、設定そのものが変更されたのかは不明) さ行 ■座 〈魂〉理論においてポラック博士が提唱した脳内チップに関わる専門用語のひとつ。脳 内チップにおけるブロードマン脳地図でいう〝野〟に相当し、脳内チップの機能と それに係る各コードに素数を割り振り意味付けしたもの。 ■サイバネ種 新構造を受け入れた人間の総称。その定義は脳内チップなどによる〝接続能力〟の進化によって、自在に肉体を変化・延長・統合することが可能となった新人類であるとされる。兵器開発局員のクラリッサによると特甲児童こそサイバネ種であるらしい。(※しかし、作中にこの言葉を用いる人間がクラリッサしかいないため、一般的な考え方であるのか不明) ■〈サテュロス〉 米軍が開発したアームスーツ。高度な人工知能を搭載し、対空機関砲と近接戦用の溶断機付きアームを装備した着るロボット。速度重視のシレンティ型と装甲重視のサテュリスキー型の二種類が存在する。黒色で山羊のような外見から〝黒山羊〟と表現される。また機体色を赤くした指揮官用と思われる機体も存在し、こちらは〝赤鹿〟と表現されている。〈戦犯法廷事件〉以降、テロリストたちが兵力として使用しているが、対抗して〈第二作戦部隊〉も同型アームスーツをシュタイア社から購入している。名前の由来はギリシャ神話に登場する半人半獣の精霊。 ■〈時間面の回転〉 ポラック博士が〈魂〉理論のレポートで提唱していた概念。脳内チップにおける時間面に関係し、2・3・5・19・31の和が60になる各素数が時間面の進行を司っているとされる。60は時計の進行に使われる六十進数に関係し、これらの数位が脳内チップ移植者における精神・肉体的な調和をもたらすとされる。 ■児童福祉局 児童にかかわる福祉業務を行う行政機関。マスターサーバー〈羴(ヨウ)〉を所有し、〈子供工場〉をはじめ機械化児童及び特甲児童の育成にも携わっている。福祉局の目の前にあるビルでは、貧しい親が子供を身投げさせることであえて肉体を破壊し機械化児童とする「捨て子」が度々行われている。 ■シュタイア社 オーストリア国内の軍需企業。幅広い銃器を製造する銃器メーカーとして広く世界中で商業展開している。モデルはオーストリアに実在する銃器メーカー、シュタイヤー・マンリヒャー社。作中ではより大規模な複合企業グループとして設定され、グループ会社のひとつであるマグナ・シュタイア社は銃器の他に蒸気機関・軍事車両・民間用自動車など幅広い分野に展開、さらに米軍のアームスーツもライセンス生産している。 ■〈シュリンクスの葦笛〉 接続者に催眠誘導と共に仮想現実を体験させる装置、およびそれによって独自サーバーに構築される仮想現実空間。仮想空間は電子追跡を逃れてネットを介した通信が行えるため、犯罪者たちの情報伝達に悪用されている。 ■〈自由戦士団〉 〈アンタレス事件〉に関わった七つのテログループのひとつ。キプロス島から追放されたトルコ人過激派組織で、正式名称は〈キプロス=トルコ自由戦士団〉。アンタレス事件以前からキプロス独立を承認した国連を敵視し、儀脳体兵器を使用して国連都市へのテロ活動を行っていた。〈待望の会〉から原子炉を引継ぎ、駅を占拠して列車による運搬を行うが、指揮を執る〈キャラバン〉からは捨て駒にされてしまった。 ■〈ジョハルの手〉 〈アンタレス事件〉に関わった七つのテログループのひとつ。チェチェン人による武装報復集団。名前はチェチェン独立を指揮したジョハル空軍少佐に由来する。〈キャラバン〉から原子炉を引き継ぎ第十九区の旧第二浄水場に籠城、玉砕する。が、時間を稼ぎの間に核弾頭〈666〉を完成させ、〈白き盾〉へ渡していた。 ■シラヌイ文書 現MSS長官ヘルガ・不知火・クローネングルクが国法研時代に書いた論文。テーマは〝仮定されるうる他国間の密約形態とその実効性〟であり、二十世紀末に先進各国が極秘裏にテロ・ネットワークと行った可能性がある取り引きついての考察が記されている。 ■人格改変プログラム 正式名称は〈人格改変化・変通抑制プログラム〉。特甲児童の心と体を無(オフ)モードにより守り、また無(オフ)状態へ過剰に適応することを防ぐため使用される。本来は特甲児童を守るための処置だったが、製造・設計・心理・発案の四部門の成果を統合する過程で未知の影響が起こり、過剰な無モードを誘発する事態となった。問題発覚後は使用が中止されていたが、特甲レベル3の使用によって再び異常を招く。 ■人格の時間面 人間の人格は様々な情報(記憶)を取り込むことで変化し続けている。これは人格改変化と呼ばれ日常的に起こる変化である。〝人格の時間面〟とは人格改変化におけるいわば方向性であり、人格を砂時計・情報を砂に例えるなら、人格の時間面は落ちた砂が刻む時間に相当する。 ■ステアーGB オーストリアのシュタイア社が1981年に開発した自動拳銃。同社の名銃P-38の後継として開発されたが、国内グロック社が開発したグロック17との競争に敗れ1988年に開発が中止された。(※ステアーはもっぱら日本の遊戯銃関係のみで使われる呼称であり、一般的にはドイツ語読みのシュタイアー、もしくは英語読みのステイアーが使われているので注意) ■身代わり(ズュンデンボック) 人格改変プログラムにより生じる心理現象のひとつ。トラウマを回避するために発生し、心の一部を〝盾〟とすることで本来の心を守る。この際に盾として現れる心が〝身代わり〟である。〝身代わり〟はあくまでも心の一部であり、破壊されることで特甲児童の心に耐久力をもたらす。〝身代わり〟で破壊された心(=記憶)は心全体に吸収され消える訳ではない。そのため一時的に記憶喪失を起こしても、心の成長によって忘れた記憶を再び取り戻すことができるとされる。 ■聖週間 キリスト教における枝の主日(日曜日)からイースター(復活祭)前日までの一週間を指す。本来はイエス・キリストの受けた苦難を観想する受難の週であり、娯楽を禁じて静粛に過ごす期間であったが、いつしか春を祝う丸一週間のお祭りとなっている。期間中はほとんどの企業や行政機関も休みに入り、ミリオポリス市内では聖水曜日の停電デー、聖木曜日の獅子祭など様々なイベントが開催されている。 ■戦況影響力 特甲児童の設計開発顧問メンデル博士が、高度な戦術・戦略情報学を統合するため独自に創案した思想。 ■〈戦犯法廷事件〉 2016年5月1日に国連都市で起こったテロ事件。都市内の国際司法裁判所で開かれるスーダン共和国で起こったエルファシル紛争の戦犯法廷に反対する二つのアフリカ系過激派組織が、国連都市及び召集された証人たちを襲撃。それを〈キャラバン〉が指揮し、さらに軍から脱走した特甲猟兵が加わったことで事態は複雑化し、同日に起こった〈空港占拠事件〉とも密接に関わる大事件となった。詳細はスプライトシュピーゲルⅣを読んでね♪
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映画ワイルドギースのモチーフになったというスタンレービル降下作戦とは どのようなものだったのでしょうか? 敵味方双方がトヨタ製の車を武装して使った結果、そのものズバリ”TOYOTA war”という俗称をつけられた戦争があるらしいけど、どの紛争のことだっけ? 中央アフリカのボジゼ元大統領とはいかなる人物なのでしょうか? ブラックホークダウンという映画を観て思ったのですが、ソマリアの内戦に出てきたのは国連軍ではないのですか? カダフィって、なぜ大佐のままだったんでしょう? ソマリアのアイディード将軍の息子は具体的には何時から何時まで米海兵隊に所属していたのでしょうか? ブラックホークダウンを見て思ったんですけど、投入された車両はハンヴィーなのは、何故だったのでしょうか。 ジンバブエのバックにはアメリカがついていてペンダゴンの外郭法人がやっている軍事会社が 現在のエジプト軍は西側装備が主力で東側装備は更新されているのですか? 南アフリカ軍の現状ってどうなんですか? 南アフリカの兵器の特徴は? 南アフリカ以外で兵器を国産してるアフリカの国ってあんの? アフリカの国々で内戦が続いてるのは中国が原因という説は? コンゴ内戦の現状は? コンゴにまともな軍はないの? コンゴにおけるレアメタルを巡る争い ソマリアの米兵死体引きずりまわしシーンですが、早期撤退の材料になったのですね。 ソマリアの海賊ってどんな連中? ブラック・アフリカで政情が安定してる国はあるの? 聖水飲んだから銃で撃たれても平気だ → 銃座に正面から走っていく → 蜂の巣にされ即死。これ本当? アフリカの人道支援とはいかなる実態か マダガスカルの現状は? ソマリア内戦のブラックシーの戦いにおけるタスクフォースレンジャーの作戦経過について教えて下さい 「ブラックホーク・ダウン」のモガディシュの戦闘についてをできるだけ簡潔に教えて ソマリア海賊対策だけど機雷で港を封鎖できんものだろうか ソマリア内戦のときに上陸した多国籍軍って何人くらいですか? ブラックバードライジングに1999年6月イタリアは大戦後初海外派兵を決断と書いてあるのですが、1999年以前にソマリアに派兵していませんでしたっけ? リビア内戦(2011年)での体制派と反体制派の勢力図は? カダフィは反政府活動を防ぐためネットの規制をしてなかったの? (2011年)リビアを攻撃している国は安保理決議に基づいてやってるのに、何故国連軍とは呼ばれずに多国籍軍と呼ばれるんですか? ルワンダの大虐殺ですが、これって多数派の民族が少数派の民族を虐殺したのですよね。 映画ワイルドギースのモチーフになったというスタンレービル降下作戦とは どのようなものだったのでしょうか? 昔のザイール(今のコンゴで、共和国じゃない方…何かややこしいな)は、19世紀以来、ベルギー国王の個人領土→ベルギー王国領に なって戦後を迎えた。 で、黒いアフリカの独立運動が激しさを増すに連れて、ベルギー領コンゴ内でゲリラに対しての戦いも激しくなっていった。 そこで、ベルギー政府は考えた。 「いっそのこと、ゲリラ指導者が統一しないうちに独立させよう。そうすれば、傀儡政権を容易にうち立てることが出来る」と。で、何の独立 準備も無しに、1960年に突然、ベルギーが手を引いた。 すると、思った通りすぐにゲリラが内部分裂を始めたわけで…。 優勢なのが首都を治めたカサヴブ大統領派(コンゴ人同盟)で、ルムンバ首相派(コンゴ国民運動)がこれに荷担。 一方、鉱物資源の豊かなカタンガ地方は、ベルギーの鉱山資本の後押しで分離独立を宣言し、チョンベが首相になった。 で、独立後すぐにベルギー軍が介入したのだが、カサヴブは明確にベルギーにすり寄り、自主独立路線を歩もうとする ルムンバと対立。 ルムンバは首相の座を追われ、カサヴブ派の実権を握ったモブツ将軍に61年、処刑された。 このため、危機感を抱いたルムンバ派はソ連の支援を仰いで臨時革命政府を樹立した。 しかし、それに乗じたカタンガ政府の勢力が拡大したため、両者は妥協し、国連軍(実質はベルギー軍主体)の名において、 カタンガ政府を攻撃して、62年にそれを殲滅させた。(ついでに言うとカサイ州も一時独立の動きを見せていた) 残ったのは2勢力…。 モブツの方は軍事力を掌握しているので、徐々にルムンバ派を圧迫し、1964年9月に、圧迫された方は首都を逃れ、再びスタンレー ビルに臨時革命政権を「ソ連の支援」で樹立した。 こうなると、南部アフリカの大国がソ連圏に取り込まれるのは必至なので、CIAを介してベルギー軍と米軍がスタンレービル を攻撃しようとした。 ところが、ルムンバ派はスタンレービルに在住の白人を人質にしたので、すぐに攻撃することが出来ず、CIAが傭兵を雇って、 スタンレービルに降下し、人質を解放させた後に、本格攻撃をしてルムンバ派を壊滅させた。 今は無き、朝日ソノラマ文庫の戦史シリーズに「コンゴ空挺作戦」と言う本に詳細が書かれているから、古本屋か図書館で 読まれることをお勧めする。 (8 名無しさん@眠い人 ◆ikaJHtf2) 敵味方双方がトヨタ製の車を武装して使った結果、そのものズバリ”TOYOTA war”という俗称をつけられた戦争があるらしいけど、どの紛争のことだっけ? リビア・チャド間の紛争と思われます。 (20 774-3) 中央アフリカのボジゼ元大統領とはいかなる人物なのでしょうか? 2001年の11月初旬にクーデター計画画策容疑で解任された人、 元国軍参謀長。 (71 438) ブラックホークダウンという映画を観て思ったのですが、ソマリアの内戦に出てきたのは国連軍ではないのですか? 調べたのですが国連軍と書いてあったり多国籍軍と書いてあったり、国連軍と表記されたりでわかりません。 国連軍が組織されたのは、朝鮮戦争の時だけです。 まぁ、湾岸以降の多国籍軍は、事実上の国連軍と言えるかもしれませんが。 (96 818) 国連憲章第7章に定義された「国連軍」は組織されたことはありません。 つまり安保理が運用指揮権を持ち、その下で軍事参謀委員会が実際の指揮を行う形で 組織されたことがないのです。 朝鮮戦争のさいは安保理の勧告によってアメリカを中心に結成されたもの。 ソマリアの場合もこれに似ています。 また、多国籍軍と平和維持軍の違いは前者は戦費は参加国負担、後者は国連負担という違いがあります。 (96 834) 国連軍が組織されたのは、朝鮮戦争の時だけです。 国連平和維持軍を忘れてるぞ。 (96 845) カダフィって、なぜ大佐のままだったんでしょう? エジプトに革命の先輩ナセル大佐という人がいまして、カダフィの心の師でした その階級を超えられるほど自分はエラくないとのことで、ずっと望んで大佐でした (66 246) 正式には革命直後の69年~70年にかけて大佐。 臨時政権から正式な政権に移行した際、文民統制ってことで軍籍を離れてリビア革命評議会議長になった。 それ以降の「大佐」は単なる称号で、「ニックネームとして気に入ってるから変えない」 (86年、カダフィが将軍の称号を辞退した時のリビア議会での演説)だって。 現在の役職は「Leader of the Great Fateh Revolution of the Great Socialist People'sLibyan Arab Jamahiriya」 で日本のマスコミでは「リビアの最高指導者」って訳が一般的。 ちなみにリビア軍には将軍もいた。 (122 814) ヒトラーは伍長でしたが何か? アラブの英雄にして元エジプト大統領ナセル氏が、軍人としては大佐止まり だったことに遠慮し、カダフィ自らも「大佐」に留まっているというのが理由。 (503 806) 「大佐」ってのは単なる通称というか自称で、実際には軍の大佐ではない。 エジプトの故ナセル元大統領の通称に倣ったものらしい。 リビア軍には将官も複数存在しているが、国家元首であるカダフィには従う義務があり、 事実従っている。 (503 807) カダフィはリビアの事実上の元首なんだけど全人民委員会書記長の職を辞してからは肩書きがない。 でもって建前上リビアは直接民主制なんで元首は存在しないことになってる だからしょうがなくカダフィの唯一の肩書きである「大佐」をつけて呼んでるだけ (503 818) 「大佐」って階級は特別な意味を持つ。 昔は連隊が最大の部隊で、その隊長たる大佐は軍人の最高位だった。 名誉連隊長制度なんてのがイギリスや昔のドイツにはあって、貴族や将官が名誉的に 連隊長(正しくは連隊保有者)に任じられるんだが、この時、その人が将官であっても 大佐(佐官)の制服・階級章を身に着ける。そっちの方が名誉があるとされているから。 (503 820) ソマリアのアイディード将軍の息子は具体的には何時から何時まで米海兵隊に所属していたのでしょうか? http //www.comebackalive.com/df/dplaces/somalia/player4.htmによると アイディード将軍の三男フセイン・マホメット・アイディードは 1992-93年にソマリアで海兵隊予備役伍長として米軍の通訳を務めてました。 しかし彼の所属部隊(カリフォルニア州ピコリヴェラの砲兵部隊)には 95年までにほとんど参加していないようです。 彼は母のコネでアメリカに渡り、高校を卒業して時給9ドルの市の職員として 働き、1987年に海兵隊予備役部隊に入隊し、95年7月まで籍を置いていました。 ただし、彼はすぐにソマリアに帰ってしまったと書いてあります。 (120 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE ブラックホークダウンを見て思ったんですけど、投入された車両はハンヴィーなのは、何故だったのでしょうか。 なかったから。少なくとも、簡単に動かせるところになかったからです。 なら逝くなよ、とみんなが言ったわけですが、それは後知恵と言うもので・・・ しかし、それにしても。 (121 system) ジンバブエのバックにはアメリカがついていてペンダゴンの外郭法人がやっている軍事会社が かの国で反乱鎮圧しているって本当ですか? 「米政府が糸を引いている」、つまり国防総省のコントロールを受けているのは事実だが、 「外郭団体」などではないし、表面的にはいかなる関係も指摘されないよう十分に注意を払っている (124 346) アルカイダの訓練支援を請け負うアメリカの「民間軍事会社」なんて物を、 アメリカ政府が認めると思うかい? 武器輸出と同じで「政府の意向」が絡まないわけないでしょうに。 (124 347) そのような会社はペンタゴンの認可なしには設立できないし、 仕事の受注にも認可が必要。米軍の天下り先でもある。 糸を引いているどころかペンタゴンそのものだよ。 そして米軍を凌ぐ精鋭部隊でもある。なぜか軍板の連中は興味が無いようだが・・・。 ジンバブエに付いてはググって見たがよく分からない が恐らく受注していると思う。 http //www.google.co.jp/search?sourceid=navclient hl=ja q=Zimbabwe%81%40mpri mpriというのはアメリカ最大のPMC。 イラクにも数千人~1万人の傭兵が派遣されているという。 彼ら無しにはアメリカは戦争を遂行できないレベルまで来ている。 なぜなら彼らについては死傷者はカウントされないし軍事費も掛からない。 じゃあ誰が金を払っているかというと世界各国の納税者だなw 要するにイラク復興支援の金が傭兵に支払われているということ。 (124 348) 現在のエジプト軍は西側装備が主力で東側装備は更新されているのですか? 例えば戦車はM1A1が主力で数の上ではM-60A1,A3も多い。東側装備はT-45/55, T-62がわずかに残るのみ。 海軍のフリゲートは米のお下がり。戦闘機はF-16に加えてファントム、ミラージュなど。 籍の上ではMiG-21もあるが数的に少ないしアップグレードなどされている様子もない。 最後に行われた更新はサイドワインダーへの対応や米式の航法、IFFシステムの導入。 訓練機、給油機、対戦車ヘリなども西側装備。 (初心者スレ485 153) 南アフリカ軍の現状ってどうなんですか? やはりアパルトヘイト前に比べて弱体化してるんでしょうか? 弱体化してる マンデラ政権誕生すると軍の大幅な人員削減が行われ 経験豊富な失業軍人はエクゼクティブ・アウトカムズ社に流れた (初心者スレ484 698) 南アフリカの兵器の特徴は? 南アはイスラエルと共同で核兵器開発やったのが有名だけど、最終的に放棄してる。 でも、その他でもイスラエルとの協働が多く、対空ミサイルなんかも両国で事実上同じものを作ってたりする。 国内の武器開発力も最先端のもの以外はかなりのレベルで、 ミサイルや対戦車ヘリ、装甲車両、対物ライフルなどを自作している。Denel社が有名。 http //www.denel.co.za/ http //en.wikipedia.org/wiki/Denel 特に装輪装甲車両については、運用に適した国土と情勢不穏なアフリカゆえの、不法侵入者との戦闘などの経験によって 世界でもトップの位置にあり、G5、G6といった長射程の自走装輪車両が有名だし、 地雷防御のために底部を舟形にした装甲車両は世界の標準となっている。 要するに、ベーシックな兵器についてはしっかりした国。 (496 250) 南アフリカ以外で兵器を国産してるアフリカの国ってあんの? 小銃さえ中国製のAKがメインだそうだけど。AKの銃弾ぐらいは自作できるのかな? スーダン政府は、拳銃、小火器、RPG及びこれらの弾薬、軍用トラックは自国で生産していると発表してますね。 中国製企業が進出して合弁という形でやってるようなんですが。実態となるとなんとも(苦笑 (アフリカの軍事情勢13 384,ロボ-7c7c ◆Robo.gBH9M ) アフリカの国々で内戦が続いてるのは中国が原因という説は? 裏でカラシニコフばら撒いてるからじゃね? ロシアもカラシニコフ氏もパテント切れてるからもう作るなと言ってるのに生産してるし でもアフリカの各軍閥(共産ゲリラやイスラムゲリラも含めて敢えて一括して軍閥と呼ぶが)に 無制限に兵器が供給されるきっかけ作ったのは、ソビエト崩壊に伴うCIS諸国からの流出品なんだよな。 T-72でさえ1000万円で流出する(&誰も管理してないから帳簿にも残らない)状況で、 資源をおさえた地方軍閥が軍備を整えた結果が今の惨状だし。 中国はCIS諸国がある程度秩序を取り戻すか、逆に内戦で自分達が武器を必要とするようになって 供給余力が絞られたために生まれた間隙に付け入っただけで、アフリカ商圏の開拓者ではないという。 (アフリカの軍事情勢13 437,439) コンゴ内戦の現状は? コンゴ民主共和国は、お宝がざくざく出ますので、10年ほど前に 周辺8カ国も雪崩れ込んで、内戦になりました。 その際、フツ族(政府が保護)×ツチ族(反政府勢力)が激しく殺りあいました。 2003年に内戦おわった事になってますが、ツチ族の反政府勢力は、どうも 武装解除に応じてくれなかったみたいですね。 先週末から、ゴマに対してなんか激しいです でBBCレポート ゴマは恐怖に包まれてます。学校商店みな閉鎖。 ンクンダ将軍の反政府勢力がせまるは、コンゴ軍はあてにならんわで。 現地インタビュー いやコンゴ軍の当てにならん事といったら、ヤツラ昨日の夜、隣の女性のトコ 押し入って、ナイフ突きつけて全部強奪していきやがったぜ。 (国連軍) ゴマを守ってるのは国連軍のし。対応限界じゃろ 増派!増派くれー この事態を招いたのは、あのツチ族出身の人。 目的は、フツ族の民兵組織から、仲間を守る為だと、ルワンダで、悪行を鳴らした フツの輩が流れ込み、政府と手を組んでるからだといってます。 ヌクンダ将軍 コンゴ東部で問題なのは、治安だ。 政府軍は、反政府勢力FDLRと手を組み協力している。 これは国家を脅かす脅威だ。 この情勢に応じ周辺8カ国の介入すらあるかも。 いぱーん人は、殺戮と拷問と暴行を繰り返す反政府勢力におびえ逃げ惑ってます。 現在、ゴマを目指して逃げてきた人達は、反対の方向に向かってます。 森の中に逃げ込む人達もいますが、援助団体の手も届かなくなりそう。 -という訳で、人道の危機とは、コンゴ軍と、コンゴ軍支配下の勢力と、 反政府軍全部から、逃げなきゃならないのが要点みたいですね(ハート)。 (アフリカの軍事情勢14 985,986) コンゴにまともな軍はないの? いつぞやの軍研記事やらを参考にした感じでは CNDP…反政府勢力ローラン・ンクンダ軍。「人民防衛国民会議」。 ルワンダ系ツチ族が中心で推定兵力7000。 鉱山地帯を制圧し、その豊富な収入をもってルワンダ政府から支援を受けているとの疑惑がある。 FDLR.…「ルワンダ解放民主勢力」。 ルワンダ大虐殺の主犯と見られるフツ族武装組織。推定兵力1万。 ツチ族系のンクンダ軍と徹底対立するも、末端は完全に盗賊化している。 マイマイ…コンゴ土着の民兵組織。 多数の組織が乱立し共闘体制が確立されてるとは言いがたいが概ねンクンダ軍を敵視。 政府軍…コンゴ正統政府の軍。しかし組織レベルもモラルも低い烏合の衆。 実態はコンゴ全域で暴れまわっていた各種武装勢力の寄せ集め。 市民の迫害、略奪などを堂々と行っている集団だが、装甲車や攻撃ヘリなど装備は一応整っており、中国の支援を受ける MONUC…国連平和維持軍。総数1万70000名の世界最大級の平和維持軍。 しかし「わずか」1万7000ではコンゴ全域をカバーする事は不可能であり、 中立を前提とするがゆえに盗賊や武装勢力を積極的に掃討する事も出来ない。 さらに悪いことに、食料と引き換えに少女に買春を強要するなどモラル崩壊も甚だしいニュースをスッパ抜かれたりしている そういう不満が積もり積もって「国連軍は盗賊を追い払えもしない役立たずだ!」と住人の不満が爆発し逆に襲われそうになる事もしばしば。 ▼対立図 FDLR || MONUC = 政府軍 ⇔ CNDP || マイマイ ⇔:敵対 =:共闘、同盟 ※ただし、盗賊化した末端のFDLR兵などから住民を守るためにMONUCが地域をパトロールをしなければならない他、 MONUC自体が少女買春を行ったなど現地はカオスっている (アフリカの軍事情勢15 296-299) コンゴにおけるレアメタルを巡る争い 2009/9/29 BS ~コンゴ民主共和国・潜入リポート~ 携帯、パソコン、ゲーム機などに使われるレアメタル(コルタン)が儲かるので、 武装勢力が資金源化、立派な血の鉱物(ブラッド・レアストーンズ?)となりました。 いつもの搾取構造や、ゴリラ被害なんかのバンクシーンはカットして、 先進国による戦争資源にからむ、不買運動は政治的には意味あり。(国境から越境してくるだろうけど・・) でもあまりに厳格適用されると、住民の生活も崩壊しかねない・・ マズは暴力を止めないと。(JICAの人談) 武装勢力に火責めにあった、大火傷被害者映像ありました。(かなりケロイド。女性なんだろうな・・) 資金を絶つという、卵が先か、暴力を止めるという鶏が先かという いつもながらの解決策なし状況。 (アフリカの軍事情勢25 BSメモ) ソマリアの米兵死体引きずりまわしシーンですが、早期撤退の材料になったのですね。 私は、逆にあれが流れた時、「あー、これで米国は後に引けなくなったな。」と思っていました。 あの頃は冷戦が「アメリカの勝利」に終わったと認識されてて、米国民は大半が「これで平和の時代が来る」 と思ってた。 「世界の責任者になった以上、世界を津々浦々までアメリカの力で平和にしなければならん」というのが アメリカ政府の考える”新しい使命”だったのだが、国民は「もう戦争は嫌だ」という意識が強かった。 だからあの一件で一挙に「世界の警察官としてのアメリカ」はアメリカ国民自身の支持を失うことに。 あと、アメリカ政府の広報とマスメディアが 「飢餓に苦しむアフリカの貧しくかわいそうな人々に歓迎される我がアメリカ軍」 をやたら強調して報道してたので、現地住民に米兵が虐殺された(まったく歓迎されてないどころか 憎悪の対象にされている)、というのは米国民には激しいショックを与えた。 (508 747) ソマリアの海賊ってどんな連中? BBCソマリア海賊インタビュー。 本来 本当に、領海に来る密漁船取り締まる自警団だったらしい。 あれやこれやで、ニュービジネスモデルへと変貌。 衛星携帯とGPSでハイテク装備。 身代・・おっと売り上げ金で、高速船と武器の投資充実を図る。 (投資をしたら、次見合う売り上げが要るよな。拡大投資の結果、 全漁民が構成員となって、今のタンカークラスの売り上げへと変貌かあ。 これぞ資本主義。) 覆面かぶった社員のお言葉。 生き延びるには、コレしかない。 やらないと俺たち飢え死にしてしまう。 (アフリカの軍事情勢15 613:BSメモ) ブラック・アフリカで政情が安定してる国はあるの? ボツワナが唯一政府による統治が成功していると言われる。 独立以来、同じ政権与党が続いているが、野党もちゃんと存在している、一昔前の日本みたいなもの。 成功している理由は、国民の95%が同一民族で後はコイサン(ブッシュマン等)だから民族対立が無い。 南アのアパルトヘイト政権に呑み込まれる恐怖から、主要八部族が利害を捨てて団結した。 そこに豊富な鉱物資源の収益があり、財政、政情共に安定している。 しかし……まともな産業が無いため、失業率は20%超、そして成人の1/3がHIV感染者である。 (アフリカの軍事情勢15 160) 聖水飲んだから銃で撃たれても平気だ → 銃座に正面から走っていく → 蜂の巣にされ即死。これ本当? マジマジ反乱 でぐぐれ。マウマウ団も使った。 (南アジアの軍事情勢2 328) ドイツ領東アフリカ(現在のタンザニア)でのマジマジ反乱。 反乱軍の兵士たちは白人の力を弱めるという「魔法の水(マジ)」を飲んでいたことからそう呼ばれるようになる。 しかし、反乱軍の装備は貧弱なものであり、本国から鎮圧軍が到着するとともに機関銃で蹴散らされてしまう。 その後も2年間に渡って続いたが各個撃破され鎮圧。 (南アジアの軍事情勢2 332) アフリカの人道支援とはいかなる実態か 2008/12/03BBCを基に大特集。 35年間で累計80兆円 でも貧困 BBC アフリカ報道エース ソーリス・サムラ氏レポート 援助中毒アフリカ シエラレオネ共和国 = ブラックマーケットに援助物資横流し 首都フリータウンのドヤ街、WHO ユニセフの無償支援の蚊帳や薬が、堂々と店先に並んでます。 「これ、無料でしょ、なんで売ってるの?」 「みんなやってるよ。通りでも売ってるし」 「政府が卸しに来たんだよ」(金もはらった。で販売してる。) 「皆、これ無料だって知ってた?」 「初めて聴いた。 -無料で手に入るなんてないよ。-何時も飯食うの止めて子供の薬代を・・・」 最も援助が成功してると評判のウガンダ = 横領される援助金 ウガンダでは大規模な横領事件が起きてます。 保健省で3人の元職員が関与。3年たっても有罪判決出てませんがね。 スイスからの援助は一時停止。薬が止まって死亡した人もいます。 では疑惑の渦中、元保険相ミクラ氏にインタビューしましょう。 (すげえ立派な自宅だなっと) 「貴方は、援助資金160万u$の横領の疑惑がかけられてますが?」 「誰かを訴追する事で、政治的問題を解決しようとしています。政治中枢にいる誰かが、生贄にさせられます」 「貴方は被害者なんですか?」 「-ノーコメント」 ■計画だけは、立派。 大金が奪われる中、多数の学校や病院が出来てます。 素晴らしい成果です。・・書類上は。 ■学校:ウガンダのすべての子供が通える分があります。 でも60%が読み書きできません。抜き打ちで視察すると、教師の3/4がいません なんで? 「教師の給料じゃ餓えます。家のトマト畑や、漁に出て魚捕まえたりしないと。 この学校建てる金が給料に廻ってくれれば良かったんですが」 現地新聞記者いわく「-優先順位が間違ってる。機能していない組織から、金が廻る・・」 ■ショッキングな医療現場 1962年英国が建てたムラゴ病院は、170万人首都カンパラ唯一の国立病院。 ウガンダの医療としては、17億5千万u$が投じられてます。 が、この病院、必要経費の1/2でしか廻ってません。責任者も辞任しましたが、 ERを覗いてみましょう。家庭用の鎮痛薬や手袋すら碌に常備してないという。 ・・戦場のようです。血だらけの人が床にほったらかしです。(30分後手当て) 一晩で80人の妊婦が来て、20人が帝王切開、なんと処置した医師は一人です。 赤ちゃん産んだ妊婦は、血だらけや注射針捨ててある床にマット敷いて累々と横たわってます。 救急患者といっしょに。職員はオーバーワークで、疲れきってます。 今年だけでウガンダの医療は5億ドルですが、一体ドコに逝ってるのでしょう? 保健省の駐車場に逝くと職員の為に買った1800台の4WD車があります。 ・・病院にある救急車は4台です。 どれだけ援助資金を投入しても、必要な所に援助は全く届いてません。 アフリカの現状は、穴の空いたバケツ という人もいます。 BBC終わり スタジオ解説 こうなってしまう要因は大きくは3つくらい ①汚職 ODAだから、予算審議・監視対象外。ググッと手が伸ばしやすい。 ②幽霊援助 中抜け。実は地元に金落ちない。(うむ日本の得意技ハコ物) ③政府”向け”援助開発 そもそも、援助は政府向け。他国民貧困層に直接ではない。 だが、金出す方と、貰うべき地元ODAの意志疎通があれば、 もうちょっと事態を改善できるのでは? (アフリカの軍事情勢16 192-207 BSメモ*加筆改編) 1990年に西アフリカから来日した某NGO代表が、現地の汚職というテーマで語ったエピソード。 西アフリカ各国の蔵相会談がA国で行われた際、A国の大臣はB国の大臣を自宅に招待した。 B国大臣はA国大臣の家があまりに立派なことに驚いて尋ねた。 「これは素晴らしい家だ! いったいあなたが年に何ドルもらっているのか知りたいものですな」 「いやいや国からもらっている金額はたいしたことないんだが…」 とA国大臣は、はるか遠くに見える橋を指さし、 「あの橋を先進国からの援助で作るとき、手数料を10%ほどいただいたんだよ」 B国大臣はなるほどと感心して帰って行った。 しばらくして今度はB国で蔵相会談が行われることになり、過日のお返しにと B国大臣はA国大臣を自宅に招待したのだが、B国大臣の家はA国大臣のそれに輪をかけて豪勢なものだった。 「驚いたよ! よほど僕の家より立派じゃないか。いったい君のサラリーはどれほどのものなんだい?」 「いやいや国からもらっている金額はたいしたことないんだが…」 とB国大臣は窓を開けて遠くを指さし、 「あの繊維工場を先進国からの援助で作るとき、手数料をいただいたんだよ」 が、A国大臣がいくら目を凝らしても、そこには荒れ地しか見えない。 「?」 「僕の場合、手数料は100%だったけどね」 (アフリカの軍事情勢17 538 Shaul ◆3RWR.afkME) マダガスカルの現状は? アフリカにしては内政が安定してる珍しい国。 しかし世界最貧国の一つで国民の大半が一日1ドル以下で生活。 韓国企業(大宇ロジスティックス)が200万ヘクタールの農地を100年契約で独占借り受け。 ちなみに日本の全農地面積は467万ヘクタール。 「土地と水だけ取って自分の国に持っていく新植民地主義」と欧米NGOが批判してる。 中国や中東諸国も新植民地主義に熱心だそうな。 (アフリカの軍事情勢16 659) ソマリア内戦のブラックシーの戦いにおけるタスクフォースレンジャーの作戦経過について教えて下さい ソマリア内戦のブラックシーの戦いてのはタスクフォースレンジャーの作戦と=みたいなものだが まあ、いいか タスクフォースレンジャーの作戦経過については 1993年10月3日 2 49PM 逮捕の目標となるディギル族指導者をモガディシオのホールワディックストリートのビルで発見 3 32 ヘリコプター19機(ブラックホーク、リトルバード) 車両12台、兵士160名(デルタ、レンジャー、SEAL、160SOAR)で構成されたタスクフォースレンジャーが行動を開始 3 42 航空機部隊(デルタ、レンジャー)が目標周辺に降下開始 その際にレンジャー隊員ブラックバーンがロープ降下中に落下し負傷 4 00 降下地点周辺にソマリ族民兵が殺到 4 02 デルタ、目標建造物に侵入し21を拘束 4 15 民兵との市街戦闘開始。車両部隊への逮捕者収容と撤退に遅れが出る 4 20 ブラックホークスーパー61がRPGによる攻撃で市街地に墜落 4 22 墜落地点に民兵が殺到。捕虜を乗せた車両部隊がデルタ、レンジャーと共に予定を変更し墜落地点へ向かう 同時に予備機として空中に待機していたブラックホークスーパー64がスーパー61の滞空地点に展開 4 28 捜索・救助チームが支援のために降下 4 35 墜落地点へ向かう車両部隊が道を間違え混乱。民兵からの狙撃を受け死傷者を出す。 4 40 交代任務で滞空していたスーパー64が攻撃を受け墜落。民兵が殺到。 4 42 ヘリボーンスナイパーとして配置されていたデルタ隊員 ランディ・シュガート一等軍曹とゲイリー・ゴードン曹長がスーパー64の墜落地点に降下救助を志願、後の英雄である 4 54 車両部隊、民兵の攻撃により半数を死傷 スーパー61の墜落地点への移動を断念し基地へ引き返す 5 03 スーパー64墜落地点に向かう別働隊の車両部隊が攻撃を受け立ち往生 5 34 徒歩でスーパー61墜落地点に向かったデルタ、レンジャー部隊墜落地点に到達 5 40 ソマリ族がスーパー64墜落地点に殺到 降下したデルタ隊員シュガート、ゴードン及びスーパー64の生存者を殺害。スーパー64の乗員マイク・デュラントは負傷し捕虜になる 5 45 デルタ、レンジャーの混成部隊99名がスーパー61墜落地点で民兵と戦闘を展開。 10 00 第10山岳師団の2中隊、基地に残存していたレンジャー部隊、パキスタン軍戦車部隊、マレーシア軍装甲車部隊が大規模な救出部隊を組織 11 23PM 救出部隊モガディシオ市街に出発 10月4日 1 55AM 救援部隊スーパー61墜落地点のレンジャー部隊と合流 3 00 スーパー61乗員の遺体回収はじまる 5 30 遺体回収が完了し車両部隊の撤退開始される 6 30 全部隊国連管理下のスポーツスタジアム跡に到着 この作戦でアメリカ軍の死者は19名負傷者は73名 捕虜になったマイク・デュラントは11日後に赤十字を通し釈放 2週間後にはクリントン大統領はタスクフォースレンジャーをソマリアから撤退するよう指示 作戦指揮官のガリソン少将は責任を負い退役 兵士たちの話によると、戦闘が続くにつれてアイディード派の兵士たちは兵士を遮蔽するために市民を彼らの前に押し出していたということだが しかしながら、アメリカ軍兵士が民兵を隠すような市民を撃ったり、殺したりすることをいとわないことを繰り返し明らかにすると この手の戦法は通用しないとあきらめ、市民による遮蔽は減った また、少数の米兵(車両)を多数で挟み銃撃し、その流れ弾による同士討ちも多数目撃されているということである この戦闘でソマリ族民兵は1000名以上が戦死しそれ以上の負傷者が出たとされている この作戦の所期の目的は達成されたため、作戦上は成功であるとアメリカ人の多くは考えている だが、30分程度で終了する予定だと豪語していた任務が夜をまたいで15時間にも及び、多くの犠牲を出した点を無視すればの話である 作戦のその後について 上記のように熾烈を極めた戦いで この戦闘はソマリアの国連活動の中でアメリカ軍が直面したもっとも激しい市街戦のうちの1つとして数えられている また、この戦いの後、死亡した米兵(上記のシュガートとゴードン、そしてブラックホークの乗員)の裸にされた遺体が 住民に引きずり回されるという内容の映像が世界に向けて公開 アメリカのニュース番組でも放映されている(後に身体を切断された状態で発見される) これに衝撃を受けたアメリカ国民の間で撤退論が高まり そういったアメリカ世論を背景にビル・クリントンは1994年、ソマリアからの撤兵を決定 この戦闘が平和維持活動から撤退したことの理由として挙げられている また、クリントンはこの作戦の「後遺症」によって この後から、地上軍の派遣をなかなかしなくなり、ミサイルや戦闘機による戦いをメインに想定しだした つまり、この作戦が、ハイテク戦争への方向を推し進めるのを早めたともいえる また、スーパー64乗員を救助に行き戦死したデルタ隊員 ゲイリーゴードン、ランディ・シュガートの両名には議会名誉勲章が授与されている 続いて参加部隊とその装備、および指揮官と一部補足 アダム64(コールサイン): ウィリアム・F・ガリソン少将(統合特殊作戦コマンド司令官) ユニフォーム64 : ダニー・マクナイト中佐(車両部隊指揮官) アルファ51 : トム・マシューズ中佐(航空部隊任務指揮官) ロメオ64 : ゲイリー・ハレル中佐(地上部隊任務指揮官) ジュリエット64 : マイク・スティール大尉(レンジャー地上指揮官) キロ64 : スコット・ミラー大尉(デルタ地上部隊指揮官) 対テロ特殊部隊デルタC中隊 : 18名 M727ライフル及びM203グレネードランチャーで武装。 75レンジャー連隊 : 82名 M16ライフル及びM60マシンガン、M249支援火器等で武装。衛生兵を含む。車両部隊30名、ヘリコプター部隊52名。 160SOAR(ヘリ搭乗員): 18名 SEAL : 2名 通信及び車両ドライバー 空軍特殊部隊STS : 4名 パラジャンパー 2名、CCT 2名 AH-6リトルバード攻撃ヘリ : 4機 MH-6リトルバード輸送ヘ : 4機 デルタ隊員輸送用 MH-60ブラックホーク : 8機 レンジャー部隊輸送用x4(チョーク1~4) デルタ輸送用として2機 戦闘救難、戦闘管制それぞれ1機ずつ OH-58カイオワ 観測ヘリコプター : 3機 P-3オライオン哨戒機 : 1機 HMMWV 装甲オプション装備モデル : 車両班 輸送用トラック 車両部隊 : 拘束者輸送用 急速対応部隊(QRF)こと第10山岳師団が参加している (332 名無し上級大将 ◆80fYLf0UTM) 「ブラックホーク・ダウン」のモガディシュの戦闘についてをできるだけ簡潔に教えて [モガディシュの戦闘] アメリカはソマリア内戦の一方に肩入れし、特殊部隊を使って敵側指導者の 拉致を試みたが、特殊部隊の乗ってきたヘリがソマリア民兵に撃墜された。 ヘリを失った特殊部隊は敵に包囲されたが、翌朝国連軍に助けられた。 予想外の被害がでたものの、作戦は成功。 死者は米兵18名、国連兵1名、ソマリア民兵&市民350~1,000名以上とされる。 (324 389) ブラックホーク作戦「リトルバード」のことかな ブラック・シーの戦いとも呼ばれることもあるね アメリカ軍特殊作戦部隊VSモガディシュ現地の民兵・住民 といったところで モハメッド・ファッラ・アイディードの副官たち(所在地はモガディシュのバッカラ市場) アイディードの外務大臣 オマール・サラッド アイディードの最高政治顧問 モハメッド・ハッサン・アウレ を捕らえること目的とし 1993年10月の3から4日にかけての15時間の間(当初は30分の予定) ソマリアの首都モガディシュにおいて行われたもので 前段階として希望の回復作戦が行われている 司令官および司令部は ウィリアム・ガリソン将軍、統合タスクフォース指令センター 民兵のほうは不明 参加人数および死者数は(米軍特殊部隊、応戦する民兵その他) 参加人数 160人、2000人以上 (都市部のみ) 死者数 18人、350から700人と推定されている 結果を箇条書きで簡潔にまとめると ハブル・ジェディド派の指導者たちの捕縛に成功、作戦目標は達成 タスク・フォースの敗北 ブラックホークヘリ2機の大破、もといブラックホーク・ダウン アメリカ軍兵士18人が死亡、73人が負傷 捕虜も1名殺害されるが その十倍以上は民兵が死んだ となっている ちなみにこれ、国連主導のものではなく ビル・クリントン大統領率いる米国の単独で 米軍以外の兵力は一切投入されていない また、米軍は1000人は殺した(民間人も含む可能性が大きい) といいはっているが事の真偽のほどは不明 落ちたのはヘリ「スーパー61」 ブラックホークが墜落するという意味の ”Blackhawk down”はたしかに有名だが 「スーパー61」の墜落時の交信として正しいのは ”We got a Blackhawk going down, We got a Blackhawk going down!!” going downは結構有名だと思うんだが・・・ (324 名無し上級大将 ◆80fYLf0UTM) ソマリア海賊対策だけど機雷で港を封鎖できんものだろうか 北ベトナムとかニカラグアの実例見ればわかるけど、非対称紛争に機雷封鎖はあまり相性が 良くないのが現実。 機雷撒いた当事者が後始末しなきゃいけないという基本的問題が存在するし、そもそも 海上封鎖に音を上げるほど大規模な海上貿易が成り立っていないので効き目が薄い。 触雷しても泳いで海岸へたどり着ける程度の浅海域を、小型の船外機舟で港伝いに 荷物運んでいる程度の海上交易は機雷封鎖されてもしぶとく継続可能だし。 (アフリカの軍事情勢27 177) ソマリア内戦のときに上陸した多国籍軍って何人くらいですか? 米軍主導で行われた多国籍軍による 「希望回復作戦」の参加兵力は、多い順に パキスタン:4436人 アメリカ:4031人 イタリア:2240人 モロッコ:1279人 フランス:1084人 ベルギー:938人 アラブ首長国連邦:762人 サウディアラビア:678人 ナイジェリア:558人 カナダ:463人 トルコ:320人 エジプト:235人 ボツワナ:203人 ジンバブウェ:161人 スウェーデン:155人 チュニジア:143人 クウェート:138人 ドイツ:135人 ギリシャ:89人 ノルウェー:74人 そして オーストラリア、マレーシア、ニュージーランドの合計が231人 インドが不明 合計:18353人 (1993年6月12日現在・ロイター通信) 多国籍軍の死傷者は(左から順に死者、負傷者) パキスタン:34人・62人 アメリカ:18人・116人 モロッコ 7人・44人 ナイジェリア 7人・8人 イタリア 6人・40人 マレーシア:1人・10人 フランス:1人・7人 ベルギー 1人・4人 カナダ、トルコが負傷者なしで死者1人づつ ノルウェー 死者なし・8人 アラブ 死者なし・2人 ジンバブウェ 死者なし・2人 (1993年0月7日現在・AP通信) 「OPERATION RESTORE HOPE」の作戦概要ね まずは第一段階 12月9日午前零時: 米軍特殊部隊SEALSがモガディシュに上陸 午前四時半: 米海兵隊第一陣(1800名)が上陸 チブチ駐留のフランス軍150人も上陸し 空港や港湾施設を管理下に置き モガディシュ、バイドアに基地設営 第二段階 バイドアの海兵隊に陸軍・第十山岳師団が合流 このころ、すでに バイドア以下、オドゥール、ベレトウェン、ジャララシは 多国籍軍の管理下 第三段階 一月 キスマヨに上陸した部隊がバルデラまで進出 第四段階 5月 米軍主導の多国籍軍から 国連軍に識見を委護 ほんとに大まかな流れなのであまり当てにしないこと (321 名無し上級大将 ◆80fYLf0UTM) ブラックバードライジングに1999年6月イタリアは大戦後初海外派兵を決断と書いてあるのですが、1999年以前にソマリアに派兵していませんでしたっけ? 元々、南部は戦後、1950年に国連信託統治領として、イタリアが後見になって統治しています。 なので、1960年の独立まで、イタリア軍はソマリアに派遣していました。 (294 眠い人@規制中) リビア内戦(2011年)での体制派と反体制派の勢力図は? 26日の朝日朝刊の記事。 軍冷遇に不満 【ダルナ(リビア東部)=井上道夫】カダフィ氏はクーデターを恐れるあまり、 軍を冷遇、不満を募らせていた兵士たちが雪崩を打って離反している――。 リビア軍の元幹部たちは「大半は反体制派に付いた」と指摘した。 戦車部隊や空軍などに所属していた退役将校4人が25日、ダルナで朝日新聞の 取材に応じた。 4人によると、現在、トリポリ周辺で反体制派を攻撃しているのはアフリカ人の 傭兵のほか、カダフィ氏の親衛部隊。その規模は数千人だという。それとは別の 組織である軍の総兵力約7万5千人のうち、7割ほどは既に離反しているといい、 反体制派と衝突している「前線」の町には配置されていないという。 反体制派の拠点を空爆しているのも、この親衛部隊に所属する「秘密の空軍」 という。一般の軍幹部には基地の場所すら知らされておらず、周辺のアフリカ友好国に 基地があるのではないか、ともいわれている。 4人によると、カダフィ氏は軍への警戒心が非常に強い。戦闘機に地上爆撃用の ミサイルを搭載することは許されず、パイロット養成課程でも実弾発射の訓練は 意図的に省かれている。軍が反乱を起こすのを警戒しているためだという。 待遇への不満も強い。新兵の給料は1200リビアディナール(約8千円)程度。 負傷兵の生活も保障されず、20年以上任務についても年金は月240ディナールに 過ぎない。「こんな条件で忠誠を誓えと言われても無理がある」と4人は指摘した。 (リビア情勢 526-527) カダフィは反政府活動を防ぐためネットの規制をしてなかったの? 2011/3/2日、出会い系サイトを使って反政府デモを計画していたと判明 ツイッターやブログは政府監視下で使えぬ 【チュニス時事】リビアの最高指導者カダフィ大佐打倒を目指す反体制派指導者の一人、オマル・シルビー氏(42)は 2日までに、インターネット上の若者向け出会い系サイトを通じ、反体制デモを仕掛けたことを明らかにした。 アラブの独裁体制の中でも徹底した強権支配を敷いたリビア当局の監視をかいくぐる狙いがあったという。 首都トリポリ在住の実業家としても知られるシルビー氏は、ネット上の交流サイト「フェイスブック」や 簡易ブログのツイッターが当局の厳しい監視下に置かれているのを察知し、出会い系サイトをデモ動員の 場に使うことを思い付いたと語った。 出会い系サイトの中では、女性を装った男性の反体制活動家が別の活動家と連絡を取り合ったほか、 アラビア語や英語で愛を意味する文字の一つを複数回つづることで、それぞれがデモ参加のために 集めた人数を伝え合ったりした。また、デモの場所や時間を交換し合うこともあった。(2011/03/02-14 48) ソース 時事通信 http //www.jiji.com/jc/c?g=int_30 rel=j7 k=2011030200475 http //www.jiji.com/news/kiji_photos/20110302at24b.jpg (ニュース速報板 そーきそばΦ ★) (2011年)リビアを攻撃している国は安保理決議に基づいてやってるのに、何故国連軍とは呼ばれずに多国籍軍と呼ばれるんですか? 国連安全保障理事会(及びその援助機関である軍事参謀委員会)が指揮を取っているわけではないから。 厳密に言えば国連軍とは、「国連加盟各国から国連安保理事会に提供された兵力を、安保理が指揮して運用する」 場合にのみ成立します。ところがこの「安保理へ兵力を供出する」ための協定を結んでいる国がないため、国連軍は 編成できないのです。 ※この点では朝鮮戦争においても、国連軍ではなく、実質は多国籍軍です。 (戦争板初質スレ4 921) ルワンダの大虐殺ですが、これって多数派の民族が少数派の民族を虐殺したのですよね。 ん~、何か根本的に誤解があるのですが、Rwandaと言う国は独立まで王国として、長身族(ツチ族)の国王の下でBelgiumが間接統治を 行っていました。 独立直前に革命があり、多数派の短身族(フツ族)が政権を掌握しました。 しかしながら、隣国のBurundiではツチ族の縁戚が国王として政権を掌握しており、その支援の下で屡々亡命したツチ族が越境攻撃を行っ ていました。 従って、ツチ族は、Rwanda社会では常にMinorityとなって、しかも、恨みを買う存在になっています。 (この辺、詳しくは古典になるのですが、中公新書290「ルワンダ中央銀行総裁日記」(服部正也著)をごらんになると宜しいか、と) 1990年、そのツチ族の反政府組織であるRwanda民族戦線(RPF)が、Burundiとは別にUgandaから侵攻し、2年余の内戦の後、漸く停戦に 漕ぎ着け、両者の融和が図られますが、大統領の「事故死」をきっかけに、政府軍はフツ族過激派の民兵と組んで、ツチ族並びにフツ族 穏健派の虐殺を始めます。 特に、ツチ族だけではなく、同じ氏族の連中もその手に掛けられた訳です。 で、この事で政府軍、フツ族過激派は国民の支持を失い、RPFの勢力が勝ります。 これによって、今度はフツ族が報復を恐れ、国民の4分の1が難民となってコンゴに流出しています。 最終的に、RPF(背後にはUgandaがいるとも言う)主導で、フツ族穏健派を軸に政府を組織し、挙国一致 内閣を組織し、報復を恐れていたフツ族も徐々に帰還をしていますが。 (172 眠い人 ◆gQikaJHtf2)
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【巻数】 3巻 【ページ数】 55ページ 【解説】 春日部さんの「クガピーは車出してくれたからいいけど」「何であんたらも一緒来るわけ?」というセリフと、後の注意事項からして、元々は春日部さんとコーサカが2人だけで海水浴に行く予定だったところが、合宿状態になってしまった事が伺える。 泳ぐ気も焼く気も無さそうな斑目と田中は女性陣の水着目当て。恵子は当然コーサカ目当て。笹原は海水浴そのものと恵子の面倒見? クガピー?は親切心か? 【コメント】
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【おかべ とおる】 米政治・国連担当の解説委員。愛媛出身。 仁鶴師匠に声が似ており、いったん「ニカクだ」と考えると、もうニカクが解説しているとしか思えなくなってしまう。
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瑞州合衆国連邦の歴史 (ずいしゅうがっしゅうこくれんぽうのれきし)では、瑞州合衆国連邦の歴史について述べる。 瑞州の黎明期 丹朝八洲 東西朝時代 東丹朝八洲・西丹朝八洲 五朝夷戎 潘朝八洲 潘朝継承戦争 柴朝八洲 濃尾の乱 南北朝時代 単朝弖南 八重尾朝瑞洲 嶺山の陣 沢谷合戦 封建制 豊川幕府 小井戸朝井 保坂朝井 御宿朝瑞洲 笠置幕府 前史 前期笠置時代 中期笠置時代 後期笠置時代 共和制への移行 東西戦争 開戦 西部戦線 東部戦線 終戦 帝国主義 瑞州内戦 瑞州の黎明期 古くから倭語→日本語を使用してきた。 約1万2千年前の氷河期の終わり頃、瑞州の地には、日本列島から島伝いに太平洋を渡って東進してきた日本人の1グループ( 先瑞洲人 )がいた。彼らは大型哺乳動物や中・小型哺乳動物を狩猟対象とし生活していた。大型の哺乳動物は季節によって広範囲に移動を繰り返すので、それを追って彼らもキャンプ生活を営みながら、頻繁に移動を繰り返していた( 狩猟時代 )。しかし紀元前8世紀ごろ、彼らは鉄器の製造を軸として力を蓄え、移住生活でなくても定住で生活が可能な生活にシフトしていった。その中で、血縁関係にある者たちが集まって「村」を作り、やがてはほかの村と争って支配下に加えることが多くなった(鉄器時代)。また、紀元前5世紀から6世紀頃、中国大陸から渡来してきたグループが漢字を伝えたため、土器~鉄器時代の記録を漢文を用いて後世に残している。また、中国大陸や日本列島からやって来る者は多く、漢字や瑞州語(日本語)は中国本土や日本列島と同等の進化を遂げることとなった。これは 渡洋文明 と呼ばれる。 しかし、村が巨大化するにつれて、住人の統率は難しくなっていったようで、ついには同じ村・民族同士でも争ってしまうような時代に突入した(紀元前2世紀頃)。ここで勝利した者を頂点として、その者が指導する「洲(読みはクニ)」と呼ばれる地域的政治集団が徐々に各地に形成されていった。 1世紀・2世紀前後に各洲が抗争を繰り返し、各地に地域的連合国家を形成した。中でも、8つの洲で構成される八洲政権が最も有力であり、これが王朝に発展したとする説が有力である。3世紀ごろに、八洲政権の首長(王)は豪族(地方首長)を従えて統一国家建設を進めた。この時期に、瑞州語を操り、瑞州地域の中央辺りに住む 八洲人 としての自覚が次第に芽生えたとされる。 丹朝八洲 丹朝 Tan dynasty 首都 豊都(遠淡海州豊比市)丹城(尾治州扶桑市) 公用語 古瑞州語 皇帝 225年 - 261年 黎文斌(開世帝) 298年 - 299年 幽縦帝 建国 225年 別称 丹、大丹、古瑞洲 国姓 黎 丹朝の始まりは黎文斌である。彼は八洲政権を構成していた8つの洲(黎洲、季洲、吽洲、沙洲、潘洲、駿洲、信洲、陸洲)を支配していた豪族全ての血を引く人物であり、豪族たちの合議により八洲政権の首長となった。これより以前は八洲政権は豪族たちの合議により政治が為されていたが、黎春光以後は彼の血筋の者が首長として政治を執り行うようになった。二代目の黎雅嘉は「八洲」の国号、「王」号に代わる「皇帝」号を設定した。これは対外的な権威付けであると考えられる。この後、黎文斌には開世帝の諡号が贈られた。 丹の王朝名は黎文斌の出身地である黎洲丹羽郡にちなむ。これは現在の尾治州扶桑市に相当する。 丹朝は地方豪族と中央の王(黎氏)による緩やかな連合体であったため、支配地域は現在の北西地方や中央地方の一部に限られ、全国的な統一政権とはならなかった。瑞州南東部にはテオティワカン文明やオルメカ文明、マヤ文明の勢力がおり、彼らは弖南(てなん)、織売(おるめ)、合罕(かあん)の王朝を創始して丹朝に対抗した。また瑞州北西部には遊牧民族であるチチメカ族(玄鷲、げんしゅう)がおり、これも丹朝に対抗した。沖思帝の時代には南部の潘洲や沙洲が陥落し弖南の攻勢にさらされたため、豊都から丹城に遷都されている。丹城が選ばれた理由は、かつて黎洲の都であったからである。 八洲政権→丹朝 黎文斌(開世帝、225~261):各州の抗争を鎮圧し、丹朝を打ち立てた建国者である。 黎雅嘉(定道帝、261~284) 沖思帝(284~295) 礼熙帝(295~298):乙卯の乱(295~299)により実弟の幽縦帝に王位を追われてしまう。 幽縦帝(298~299):乙卯の乱(295~299)により実兄から王位を奪うものの、後に礼熙帝に敗北し、地方へ落ち延びる。 東西朝時代 乙卯の乱により皇帝を名乗る者が二人出現し、それぞれが国を東西に二分(東丹朝、西丹朝)したため、東西朝時代と呼ばれる。 東丹朝八洲・西丹朝八洲 東丹朝 Totan dynasty 首都 豊都(参河州豊橋市) 公用語 古瑞州語 皇帝 299年 - 300年 幽縦帝 建国 299年 別称 東丹、東洲 国姓 黎 西丹朝 Seitan dynasty 首都 丹城(尾治州扶桑市) 公用語 古瑞州語 皇帝 299年 - 321年 礼熙帝 建国 299年 別称 西丹、西洲 国姓 黎 乙卯の乱で敗走した幽縦帝はかつての丹の都である豊都に辿り着き、ここを本拠地として礼熙帝の軍に対抗した。勢力に劣る幽縦帝は圧政を敷き民衆からの反感を買ったが、弖南や織売、合罕の三国に贈り物をするなどの懐柔策を用い、後顧の憂いを断った(蛮丹の盟)。しかしながら305年、その圧政についに民衆の不満が爆発し、豊都の乱で幽縦帝やその長男は殺害され、後継者争いの火種となるのを避けるために幽閉されていた次男が帝位を継いだ。これが文賢帝である。文賢帝やその息子の凱介帝は善政を敷き、国を安定化させた。 一方西丹は、礼熙帝も誠崇帝も最初から善政を敷いていた。しかし霊繆帝は暗愚であり、放蕩生活に溺れた末、341年には玄鷲との戦いに敗れて戦死した。残された哀懐帝はまだ10歳と幼く、東丹の首脳部は西丹に和平交渉を持ちかけるも断られた。翌342年、ついに東丹が西進を開始し、丹城はあっけなく陥落して西丹は滅亡した。この際、礼熙帝統の皇族は皆殺しにされた。 こうして東丹は悲願の両朝統一を成し遂げたが、北西部には未だ玄鷲の勢力が残っており、凱介帝自身も345年に勢力争いに巻き込まれ暗殺されてしまい、統一期間はたった3年で終わった。 東丹 幽縦帝(299~305):東丹(幽縦帝統)の祖。 文賢帝(305~321) 凱介帝(337~345) 西丹 礼熙帝(299~321):西丹(礼熙帝統)の祖。 誠崇帝(321~337) 霊繆帝(337~341) 哀懐帝(341~342) 五朝夷戎 東丹が勢力争いで凋落すると、各地の有力者たちが活気づいて地方国家が分立した。玄鷲は、東丹の滅亡と時を同じくして西部に勢力を持つ鷲戎(じゅじゅう)、北東部に勢力を持つの玄夷(げんい)の二つに分裂し、またそれぞれが次第に八洲人と同化していった。南では特に力を持った五朝が分立し、北では鷲戎と玄夷が勢力を持っていた時代を、東西朝時代の中でも特に 五朝夷戎時代 と呼ぶ。なお、弖南や織売、合罕の南東部三国は南蛮と呼ばれ、東五朝の内に入らない。 東五朝、およびその従属国家 国名 姓氏 領地 備考 先衛(せんえい) 白姓衛氏 静駿州の一部、重賀州の一部、紀山州の一部 後の「衛」と区別するため先を付けて呼ばれる。 白姜(はくきょう) 姜氏 先衛に従属 鄭(てい) 鄭氏 先衛に従属 朱参(しゅさん) 朱姓洪氏 遠淡海州南部、近海州の大半 蔡栄(さいえい) 隗姓蔡氏 朱参に従属 南宮(なんきゅう) 南宮姓 朱参に従属 朱単(しゅぜん) 朱姓 朱参に従属 梁崗(りょうこう) 梁姓馮氏 梁丹(りょうたん) 黎姓 遠淡海州豊比市一帯 梁崗の保護下 大武(たいぶ) 武氏 尾治州大武市一帯 梁崗に従属 林紫(りんし) 万俟姓公氏 西鄭(せいてい) 蒲姓鄭氏 林紫に従属 季潘(きばん) 季姓潘氏 林紫に従属 暁北(ぎょうほく) 許姓江氏 曾師(ぞうし) 戎姓師氏 暁北に従属。元は鷲戎族貴族 龍浦(りゅうほ) 戎姓龍氏 暁北に従属。元は鷲戎族貴族 玄石(げんごく) 玄姓石氏 暁北に従属。元は玄夷族貴族 鍾諏(しょうしゅ) 鍾氏 暁北に従属 西朝 国名 氏族 領地 備考 木曾(きそ) 鷲戎族 中濃州木曾市一帯 東朝文化に迎合した鷲戎系貴族が八洲人化して建てた国家。 鳴波(めいば) 玄夷族 波島州一帯 東朝文化に迎合した玄夷系貴族が八洲人化して建てた国家。 潘朝八洲 潘朝 Pan dynasty 首都 豊都(参河州豊橋市) 公用語 古瑞州語 皇帝 408年 - 413年 潘国亮(雍宣帝) 471年 - 499年 孝哲帝 建国 406年 別称 潘、大潘、古瑞洲 国姓 潘 潘氏のルーツは玄夷族の地方貴族にまで遡るとされ、明確に記録上に現れるのは五代目とされる潘雲紀からである。鳴波国において、潘雲紀は軍の武将としての扱いを受けていたが、同時に野心高い人物でもあったようで、巧みな謀略を駆使してついには鳴波皇族の外戚にまで上り詰めた。その後彼は敵対勢力の放った刺客に暗殺されるも、その息子である潘国亮もやはり野心高く、鳴波に反旗を翻して独立。400年に潘の建国を宣言し、その二年後には鳴波を滅ぼした。 この新興勢力に対し五朝や木曾は警戒の色を強め、藍帆などによる連衡策(五朝および木曾を横に束ね、北の脅威である潘に対抗する)などが提唱された。一時は対潘大同盟が結成される事態となり潘は窮地に陥るも、潘国亮は宰相・胡又儒が提唱した合従策(潘と五朝・木曾で個別に同盟を結び、縦に連結する)を取り入れ、ピンチを乗り切った。その後潘国亮は国家を挙げて南下を開始し、五朝の一つである梁崗の保護下にあった丹朝の末裔国家・梁丹国および豊都を支配下に置くと、丹朝皇族家の末代である黎宜雅から禅譲を受けて雍宣帝として即位した。これを以って 潘朝八洲 が成立したと見なされるが、かつての丹朝の支配領域を再統一するまではこの後も数年掛かっている。 成立当時の八洲政権や丹朝、そして潘朝の支配地域は、現代瑞州の全域に及ぶものでなく、北西や南東などはまだ領域外だった。しかし南東の弖南や織売に対しては、紀元5世紀頃に潘朝による征服がなされ、支配下となった。特に5世紀前半は、北米・南米遠征も計画され、実際に侵攻が行われる(北狄・南蛮征伐)など帝国としての対外志向が強まった時期だが、5世紀中盤に入り、こうした動きも沈静化した。 八洲は5世紀前半から中華の法体系・社会制度を急速に摂取し、古代の中央集権国家としての完成を見た。 一方で、八洲は潘朝の統治下で安定したかのように思われたが、第三代皇帝である孝哲帝が後継者を決めないまま厠で急死したために、各地の領主たちが自らに都合の良い皇族を担ぎ上げて皇帝に推挙するお家騒動が勃発。やがては武力抗争にまで発展し、 潘朝継承戦争 が始まる。 潘朝継承戦争 後継者として有力と見られていたのは孝哲帝の弟である潘博然であり、博然のもとには豪氏や郭氏といった氏族が集まっていた。しかし豪氏と並ぶ有力氏族である秦氏は孝哲帝の外戚である黄鵬を推薦し、意見を異とした両勢力は武力に訴えた。 当初こそ潘博然の側が優勢であったが、450年に彼が急死(急性アルコール中毒と言われる)すると、その勢いは衰えた。翌年に黄鵬は即位を宣言したが、国号を「黄」に変え、継承戦争に功績のあった諸侯に封土を与えた上で、丹朝のような合議体による理想政治を目指したため、中央集権を理想とする秦氏の造反を招いた。このため、黄鵬は潘朝の皇帝と見做されていない。 一方で、孝哲帝の第二皇子である潘江春は、鎮北将軍として八洲北部防衛の任に当たっており、懐柔のために鷲戎族の貴族の娘と結婚し、姓を柴に変えていた。継承戦争勃発直後は北走した木曾国の残党(北曾)と戦っており、候補として名前を挙げられることはあっても、とても後継者争いに口を出せる状況ではなかった。459年に彼が戦死した後も嫡子の柴子良が引き続き任務に当たっていたが、467年に玄夷を鎮圧すると、黄鵬や秦氏に反発する豪氏や郭氏から皇帝候補として担ぎ出され、継承戦争に参戦した。 潘朝八洲 潘国亮(雍宣帝、408~413):東朝文化に迎合した玄夷系貴族が八洲人化した氏族の出身とされる。 粛武帝(413~437):南方や北方の異民族を攻め滅ぼしたり屈服させる。 孝哲帝(437~445):後継者を決めないまま急死した。 柴朝八洲 柴朝 Sai dynasty 首都 中城(常陸中州荊城市) 公用語 古瑞州語 皇帝 471年 - 480年 柴子良(明寧帝) 608年 - 610年 孝哲帝 建国 551年 別称 柴、大柴、古瑞洲 国姓 柴 継承戦争を終結させた柴子良は、潘朝が首都としていた豊都に入京すると、471年に即位した。 これまでの王朝である黎や潘は中華に大きく影響を受けた統治システムや社会文化であったのが、柴の翼公帝が即位した頃から次第に中華文化との剥離が著しいものとなり、人名なども瑞州独自のものとなっていった。 濃尾の乱 六代目皇帝・干虚帝は非常に愚鈍で好色な皇帝であったと伝えられる。国中の美女を集めては王宮で侍らせており、臣下に讒言する者があれば自ら手討ちにするか、そうでなければ無実の罪を着せて処刑するなど、恐怖政治を敷いた。一方で対外戦争に関しては「天賦の才」を発揮したとされ、潘朝継承戦争にどさくさに紛れて八洲支配下から独立していた弖南や織売に侵攻、これを支配領域に取り戻した。戦後の論功行賞により封土を加増された地方豪族も多くいたため、臣下の間では不満こそ溜まっていったが、それが大爆発を起こすような事態にはならなかった。 しかし、干虚帝が崩御し次男の元章帝が即位すると事態は一変した。元章帝の異母兄で長男の柴道成は、父の干虚帝に讒言したことと、母の身分が低いことで皇位継承順では下位に位置していたが、長幼の序を理屈として自身が皇帝になるべきと主張。それに賛同する名門の衛氏(尾治)や真浦氏(信濃)などを中心とする諸侯と共に蜂起し、609年2月に 濃尾の乱 が勃発した。 また、元章帝は父親の政治を反省し、荒廃した国内を立て直すために中央集権化を推し進めようとしていたのだが、その中に「諸侯の封土削減・皇帝直轄領の増加」という政策が含まれていたため、諸侯たちが反発したのも乱の原因であった。これらの政策は一般庶民たちからは支持を得たものの、諸侯たちにとっては不愉快なものであったのだ。 609年12月7日、柴軍は道成軍を急襲し、総大将の道成を殺害する(飯田の戦い)。しかし諸侯たちは新たに、衛氏の当主である衛士門を総大将とし、再び柴軍に挑んだ。戦上手として知られた衛士門の指揮に、柴軍は敗北を重ね、610年10月24日には鹿児島の戦いで柴軍が殲滅され、元章帝は戦死。残された皇族たちも捕縛・処刑され、ここに柴朝は滅亡した。 仲朝八洲 柴子良(明寧帝、471~480) 翼公帝(480~497) 和厚帝(497~508) 礼理帝(508~539) 安高帝(539~572) 干虚帝(572~577):悪政により求心力を失う。 元章帝(577~610):治世の末期に濃尾の乱が発生、衛氏・真浦氏連合軍に敗北し、殺害される。ここに柴朝は滅亡する。 南北朝時代 柴朝が滅亡した後、濃尾の乱で連合を組んだ衛士門・真浦秀志は反目し合い、それぞれが独自に王家の創立を宣言する。611年、衛氏と真浦氏の対立は武力衝突に発展し、庄内川の戦いで真浦軍が衛軍を撃破、衛氏は本拠地であった尾治を失い、南方に逃れることとなる。これを以て真浦氏の建てた北朝(津朝とも)と、衛氏の建てた南朝(衛朝とも)が並立する南北朝時代の始まりであるとする説が一般的である。 真浦氏・衛氏による南北朝並立の時代は30年足らずで終了した。後衛は本拠地や従属していた異民族の領域を失っても、他の氏族と結んだ婚姻関係を軸に良好な統治を行ったのに対し、津の統治は上手く行くことがなく、二代目の皇帝・真浦俊直の死後にさらに十三国に分離した。 南北朝時代 国名 姓氏 領地 備考 後衛 (こうえい) 白姓衛氏 瑞州南部 前の「衛」と区別するため後を付けて呼ばれる。南朝衛とも。 津 (しん) 海姓真浦氏 瑞州北部 海津、大津とも呼ばれる。 八代 (やつしろ) 南宮姓全氏 梨甲州 北朝十三国の一つ。 武江 (ぶこう) 隗姓播野氏 那橡州、埼武江州、神相州 北朝十三国の一つ。 周芳 (しゅうほう) 周姓齋氏 山防州 北朝十三国の一つ。「すわ」とも。 羽州 (うしゅう) 秋姓 秋羽州 北朝十三国の一つ。 楠成 (なんじょう) 成姓鄭氏 濃波州、林播州 北朝十三国の一つ。 常陸(ひたち) 成姓鄭氏 常陸中州、能石州、嶺狭州 通常北朝十三国とは数えられない。のちに鄭橘、嶺に分裂する。 鄭橘 (ていきつ) 成姓鄭氏 常陸中州 北朝十三国の一つ。 嶺 (れい) 干氏 能石州、嶺狭州、波島州 北朝十三国の一つ。 対島 (つしま) 朱姓 岩陸州 北朝十三国の一つ。 武遠 (ぶえん) 武姓杜氏 中濃州、濃前州 北朝十三国の一つ。 高 (こう) 高姓 三勢州、嶋海州 北朝十三国の一つ。 板 (ばん) 板姓城氏 重賀州 北朝十三国の一つ。 淡海 (あわうみ) 冷姓木菱氏 尾治州、遠淡海州、近海州 北朝十三国の一つ。 紀州 (きしゅう) 井姓 紀山州、静駿州 北朝十三国の一つ。 単朝弖南 単朝 Zen dynasty 首都 岡山(吉備作州岡山市) 公用語 弖南語上代瑞州語 皇帝 610年 - 654年 単富賢(忠壮帝) 737年 - 740年 慎舒帝 建国 551年 別称 単、弖南 国姓 単 柴は対外戦争で領土を拡大し、南蛮と呼ばれていた異民族である弖南や織売を従属させ、各地域に督部を置いて彼らを支配していた。しかし濃尾の乱の混乱で、支配地域に置かれていた督部の権力も次第に減衰していた。609年末、備州の弖南族・羅國辰が蜂起し、備州督部を攻め滅ぼすと、弖南国家の再建を宣言した。しかし羅國辰は未だ若く、後継ぎもないままに、翌年正月の酒の席で急死する(死因は急性アルコール中毒とみられる)。困り切った弖南の各族長たちは、羅國辰の従兄であり、勇将の誉れ高かった単富賢を擁立し、皇帝に即位させた。これを以って 単朝 が始まったとみられる。 富賢は国力を温存するために、向かってくる敵には対処するものの、南北朝の争乱で混乱していた八洲への介入は避けていた。また同盟や契約を駆使し、北朝十三国のどれかに力を貸すなどの方針を以って力を伸ばし、次代の誠崇帝の時代、670年代前半には織売や合罕も糾合して一大勢力となっていた。社会基盤も整い、期は熟したと判断した三代目の彭強帝は八洲への侵攻を開始。721年までには南北朝全ての領域が単朝の支配下に入り、八洲は初めて異民族により統一された。 しかしながら八洲人の反抗も根強く、単朝の支配も安定しなかった。729年に八洲人官僚である許政宏と趙義憲が許趙の乱を引き起こすと、仁容帝は武勇で知られ単に忠誠を誓っていた八重尾伸隆を鎮圧に派遣した。一旦は反乱の鎮圧に成功するものの、732年に今度は伸隆が反乱を起こし(単勢戦争)、有効な対処策も見つからないままに単の支配領域はみるみる削り取られ、740年に首都の岡山が陥落。幼少の慎舒帝は行方不明となり、ここに単は滅亡した。 八重尾朝瑞洲 八重尾朝 Yaeo dynasty 首都 鈴鹿(三勢州鈴鹿市) 公用語 瑞州語 皇帝 740年 - 749年 八重尾伸隆 813年 - 839年 八重尾忠隆 建国 740年 別称 瑞洲 国姓 八重尾 北朝十三国の一つ・高の重臣で、数多くの周辺諸国との戦争で武勇を轟かせていた八重尾伸隆は、主君である高一輝の愚鈍を理由に飯高崩れを引き起こす(724年)。一輝は就寝中に襲撃、暗殺された。大河内氏は一輝に嫡子がいなかったため廃絶となり、また裏工作により高の家臣たちの支持も集めた伸隆は高の実権を握った。伸隆は総合的に判断した結果、急速に力を伸ばしてきた単へ歯向かうことは得策ではないと判断し、単へ帰順した。その結果、仁容帝にその武勇の才を見込まれ、伸隆は単の重臣として召し抱えられた。 729年に八洲人官僚である許政宏と趙義憲が許趙の乱を引き起こすと、仁容帝は伸隆を鎮圧に派遣した。許軍や趙軍に対する二方面作戦を強いられ苦戦するものの、伸隆は一旦は反乱の鎮圧に成功する。しかし単の支配能力の低下や腐敗を見て取った伸隆は、今度は自分が単に反旗を翻した(単勢戦争)。八重尾叛逆の報に、仁容帝は驚きのあまり吐血、失神し、そのまま崩御した。次代の逸淵帝は、戦上手で知られる伸隆に対し有効策を取ることができず、瞬く間に支配地域を失っていった。本人も737年に崩御、後を幼子の慎舒帝が継いだものの、単重臣たちにそれを守り立てて単の支配を復活させる力はもう残っていなかった。 740年に単の首都である岡山を攻め落とした伸隆は、皇帝の座に就き(八重尾戴冠)、国号を改称して 八重尾朝瑞洲 帝国を新しく開いた。首都は鈴鹿(三勢州)。「瑞」、つまり天が善政に感じてくだす、めでたいしるしへの期待と、「洲」、多くの「洲(クニ)」が連帯して開かれた王朝であることを示すためにこの国号を設定したと考えられる。またこの頃になると「諡号」の伝統が消失し、皇帝名は「本人の名+帝」で表記されるようになっていった。この時読み方としては、名の部分が全て音読みで読むことが非常に多い(例:八重尾伸隆(やえおのぶたか)→伸隆帝(しんりゅうてい))。 即位後、伸隆帝は次なる標的を、許趙の乱や単勢戦争のどさくさに乗じて独立した小国家群を標的を定めたものの、八重尾朝の勢いを既に知っていた数か国はすぐに降伏した。伸隆帝は戦場での苛烈さや野心の高さ、計算高さとは対照的に、配下に対しては慈悲深い人物でもあり、投降した君主家である城氏と木菱氏らを家臣団に加え入れている。降伏したいずれの主君筋も伸隆帝は厚遇したことから、家臣団の結束力はより強いものとなった。そしてこれは八重尾朝の政権運営の原動力となった他、八重尾朝の重臣格の家は貴族となり、現在でも存続しているような名家となった。しかしながら、降伏を拒んだ国に対しては、伸隆帝は徹底的な制圧戦を展開した。 747年に鄭橘、武遠を滅ぼした伸隆帝は、高くそびえたつ山々に囲まれうかつに手出しのできない後嶺と、未だ統一のされていない北半島地域を天秤にかけ、748年に半島征伐を決意。総動員した船上戦力と、半島の付け根にある梨甲地域を支配する八代を攻め落としてからなだれ込む地上戦力の二軍を分けた伸隆帝は勝利を確信していた。しかし、菊多沖海戦の勝利の報に喜んだのもつかの間、自らも山々に囲まれて飛び出てくることはないだろうと踏んでいた後嶺が侵攻を開始し、波島地方を占拠したという急報が届いた。波島は首都の鈴鹿の目と鼻の先であり、しばし逡巡した伸隆帝は、船上戦力を引き戻して嶺へ急行させるも、749年に後嶺軍と向かい合った御嶽山の陣中にて、風邪をこじらせて没してしまう。遺言通りに帝位と家督を相続した嫡子の芳隆帝は対嶺戦の続行を指示しつつ、八代方面軍の指揮官の真方頼実に和睦を指示。ひとまず北半島への戦役は中止され、帝国は後嶺との戦争に全力を投入することとなる。 嶺山の陣 750年、帝国軍上層部( 幕府 と称される)は集結しつつある全軍を三手に分け、山防方面から嶺狭を攻撃する嶺狭方面軍、常陸中や濃前方面から能石を攻撃する能石方面軍、重賀や三勢方面から波島を攻撃する波島方面軍が編制された。それぞれの方面軍大将には鎮北将軍、鎮西将軍、鎮東将軍の位が与えられ、右藤吉胤・藪上邦茂・衛昌晃の三人が将軍職を拝命した。また、内政統治に忙しい皇帝に代わり、継続して集中的に全軍を指揮できる階位として 征夷大将軍 の位が新設され、大鳥井重輝が大将軍位に就いた。征夷大将軍は幕府のトップであり、軍政・軍略面に関して非常に大きな権限を有していた。 同年十二月、にらみ合いを破り、帝国軍が嶺の勢力範囲に進出するも、後嶺軍は地の利を最大に活かしてこれらを撃退。何度目かの侵攻失敗に際し、一度鈴鹿に帰っていた芳隆から(激励のつもりで)視察を行うという報告を受けた重輝は、皇帝の到着までになんとかして後嶺を攻め滅ぼさないといけないと焦り始め、ついには自身が陣頭指揮を執ると宣言。機動力を重視し、重装備で移動速度の遅い近衛兵の護衛を付けずに出撃するも、後嶺軍伏兵の挟撃に遭い討ち死にを遂げる。後任には木菱宜之が着任した。 木菱はこの時数え年で76歳という高齢であったが、十三国時代を淡海の王として生き抜いてきたその老練的な手腕は衰えを知らず、的確に軍を動かすことで後嶺軍を徐々に後退させた。752年4月、能石を制圧したことで嶺狭・波島で後嶺が分断されてしまい、「帝国内での自治を認めてくれないなら戦うまで」という消極的主戦論を唱える嶺狭の後嶺( 西嶺 )と「帝国の首都・鈴鹿のある三勢まであと少し、攻め込めば勝てる」という積極的主戦論を唱える波島の嶺( 東嶺 )の二つに分かれた。東嶺がこのような主張をしたのは、東嶺の成り立ちとして、もともとは開戦時に嶺本土から出撃して波島を占拠した遠征軍が主体となって統治する軍事国家であったからで、冷静な判断を下せず血の気が盛んだったことによる。東嶺はもとより、瑞洲の中央政権による統一を目指す芳隆としては西嶺の主張も受け入れるわけにはいかず、結局は二つを相手にし戦うこととなってしまった。翌年、三勢から出撃した皇帝近衛軍と鎮東将軍の軍勢の挟撃にあい東嶺は滅亡。残る西嶺もよく抵抗したものの、760年までには降伏した。 8世紀から9世紀にかけて、戦乱に巻き込まれた地方豪族や有力農民は、勢力の維持・拡大を図り、武装するようになった。彼らはしばしば各地で紛争を起こすようになり、政府は制圧のために中下級の貴族(公家と呼ばれる)を押領使や追捕使に任じて、各地に派遣したが、中には在庁官人となってそのまま定着するものも現れるようになった。これが武士の起こりである。武士は家子や郎党を率いて戦を繰り返したが、やがて連合体である武士団へと成長した。中でも中央貴族の系譜を引く平沢氏と熊谷氏は、軍事貴族である武家となって、武士を二分する勢力に成長した。また、武士団の成長に伴い、本来は戦時にのみ設置される最高司令部である幕府が常設となり、そして軍事だけではなく政治にも干渉するようになる。 八重尾朝瑞洲 八重尾伸隆(740~749) 八重尾芳隆(750~758) 八重尾正隆(759~774) 八重尾憲隆(775~812) 八重尾忠隆(813~839) 八重尾朝の幕府 征夷大将軍を最高指揮官とする、帝国軍の最高司令部。748年、八重尾伸隆による第一次北半島戦役の直前の軍制改革によって制度化された。外征時に設置される外征型幕府と、文官(公家)からの出向者が構成人員の多数を占め、平常時の軍政・軍略を司る近衛型幕府の二つに類別される。当初は外征型幕府が非常時に設置されていたが、次第に外征型幕府は常設組織となり、そして近衛型幕府へとシフトしていった。 大鳥居幕府(748~750、外征型):半島征伐のために開かれた司令部で、当初の最高指揮官は鎮西将軍であった。嶺山の陣での制度の変更により、最高指揮官は征夷大将軍となった。 大鳥井重輝(748~750) 木菱幕府(751~762、外征型):大鳥居重輝の討死後、大鳥居家には征夷大将軍になれる人材がいなかったため、後任として着任した木菱宜之によって開かれた。 木菱宜之(751~753) 木菱克之(754~762):西大嶺の降伏後、戦後処理および東大嶺残党の討伐も担当。 木菱頼之(763~774):主君の死に伴って殉死。 木菱輝之(775~780) 第一次奥谷幕府(781~790、近衛型) 奥谷義光(781~785) 奥谷英光(786~790) 神戸幕府(791~793、近衛型):793年、久間田の変によってクーデター計画が発覚。幕府構成人員全員が厳罰を受ける。 神戸克利(791~793):クーデター計画発覚後、八重尾憲隆によって謀殺される。また、神戸氏は族滅となった。 第二次奥谷幕府(794~810、近衛型) 奥谷忠光(794~802) 奥谷儀光(803~810) 平沢幕府(811~825、近衛型):平沢氏は元をたどれば名門・城氏の分家である。 平沢清彦(811~816) 平沢裕彦(817~822) 平沢重彦(823~825) 熊谷幕府(826~839、近衛型→外征型):熊谷氏も元をたどれば名門・衛氏の分家であり、また皇帝家である八重尾氏の血も入っていた。 熊谷博秋(826~829) 熊谷頼秋(830~839) 沢谷合戦 沢谷合戦期(たくこくがっせんき)とは、武家の二強として成長した平沢氏と熊谷氏による対立、戦乱の時代である。八重尾朝の皇帝・忠隆帝が後継者決めに腐心している最中に亡くなってしまったため、忠隆帝の弟である清隆を推す平沢氏( 能石平沢家 )と、忠隆帝の側室が産んだ年少の遺児、徳千代を推す熊谷氏( 参河熊谷家 )で対立が勃発した。その対立は次第に軍事的な衝突となっていき、統一国家・八重尾朝は瓦解してしまった。 戦乱は150年以上にも及び、当然の帰結として後継者たちもみんな死んでしまって、沢谷合戦は後継者決めの戦争から平沢氏・熊谷氏の権力闘争という構図に変化してしまっていた。1001年、鉢伏山の戦いで平沢氏が滅ぶと、名実ともに熊谷氏が瑞洲のトップの座に就いたが、当主である辰秋は旧皇帝家に遠慮したのか、自ら新たな王朝を開くようなことはせず、あくまで幕府(征夷大将軍)による支配体制を確立しようとした。それに不満を持った筆頭家臣・小井戸正嗣は、賛同する者を集め熊谷家を脱け出し、自領である北半島を拠点に僭称小井戸幕府を開き、ついで 井 (しょう)の建国を宣言する。 封建制 10世紀から12世紀にかけて、旧来の皇帝を中心とする古代の律令国家体制が大きく変質し、武士の熊谷氏や小井戸氏が実権を掌握する武家政権が保守的貴族勢力と拮抗しながら国内を統治する中世国家へと移行した。この体制はしばらく続いた( 東西朝時代 )。 豊川幕府 豊川幕府 Toyokawa Shogunate 首都 豊川(参河州豊川市) 公用語 瑞州語 将軍 1001年 - 1015年 熊谷辰秋 1138年 - 1153年 熊谷利秋 成立 1001年 別称 熊谷幕府 東の政権・豊川幕府は、参河国・豊川を首都とし、封建制を採用した。幕府と名乗ってはいるが、国内の一部や海外の研究者たちからは王朝国家と同一視されている。 豊川幕府 熊谷辰秋(1001~1015) 熊谷光秋(1016~1036) 熊谷康秋(1037~1059) 熊谷邦秋(1060~1103) 熊谷昌秋(1104~1137) 熊谷利秋(1138~1153) 小井戸朝井 小井戸朝 Oido dynasty 首都 上越(越野州上越市) 公用語 瑞州語 皇帝 1003年 - 1018年 小井戸正嗣 1172年 - 1175年 小井戸信寛 建国 1003年 別称 井、瑞洲 国姓 小井戸 北半島を拠点とした西の王朝・井は、首都を越野国・上越と定め、郡県制を採用した。 小井戸朝井 小井戸正嗣(1003~1018) 小井戸正公(1019~1031) 小井戸正信(1032~1057) 小井戸俊康(1058~1078) 小井戸宗俊(1079~1085) 小井戸武嗣(1086~1121) 小井戸正洋(1122~1144) 小井戸崇洋(1145~1162) 小井戸崇宗(1162~1171) 小井戸信寛(1172~1175) 1153年に熊谷幕府を滅亡させた崇洋帝は、自身が保守的貴族勢力と結託し、古代の皇帝政に回帰する改革を行った。ここに統一国家・ 小井戸朝井 (小井戸朝瑞洲)の統治が完成したものの、小井戸朝の力は崇洋帝以降だんだんと衰えていき、ついには 柿崎川の変 で信寛帝が重臣の外所貴彰に暗殺され、外戚の保坂康義に乗っ取られる事態となった。 保坂朝井 保坂朝 Hosaka dynasty 首都 京(瑞京府) 公用語 瑞州語 皇帝 1175年 - 1189年 保坂康義 1385年 - 1389年 保坂康正 建国 1175年 別称 井、瑞洲 国姓 保坂 柿崎川の変後、保坂康義が外所貴彰を 鳥屋野潟の戦い で討ち取り、実権を掌握。自らが帝位に就いた。 保坂朝井 である。康義帝は首都を自らの直轄地であった近海州の一部地域におき、その地域を「京」と改称した。現在の瑞京である。また、小井戸朝とは異なり、封建制を採用した。 保坂朝井 保坂康義(1175~1189) 保坂康武(1190~1211) 保坂秀亘(1212~1254) 保坂泰盛(1255~1274) 保坂康清(1275~1309) 保坂俊高(1310~1317) 保坂政義(1318~1344) 保坂重義(1345~1367) 保坂和良(1368~1377):最期まで後継者を明確に指名しなかったため、後継者争いである 二条の乱 を引き起こす。 保坂正二郎(1378~1379):和良の遺児であるが、二条の乱に敗れて戦死。 (空白期間) 保坂康正(1385~1389):一良の弟。二条の乱には勝利するも、 稲沢の変 で重臣に謀殺される。 保坂朝は9代目・和良が最期まで後継者を明確に指名しなかったため、後継者争いである 二条の乱 が勃発する。和良の遺児である正二郎はまだ3歳であったため、和良の弟である康正を推す重臣・相野田重浩と、正二郎を推す屋宜正芳の間で意見が割れたためである。二条の乱は当初屋宜軍が優勢であり、正二郎は一度は正式に帝位に就くが、戦局はだんだんと悪化し、1379年、陣中にいたところをスパイ(間者)によって暗殺される。流石に非道な戦い方であると、勝ったはずの康正・相野田軍の元から離反者が続発し、京を守る屋宜軍を攻め落とし帝位に就くまでに結局5年弱掛かってしまった。ともあれ康正は念願の帝位に就いたわけであるが、4年後には重臣の裏切りに遭い謀殺されてしまう( 稲沢の変 )。 皇帝の不在では国内がまとまらないと考えた保坂朝家臣団は、臣籍降下し御宿氏を開いていた和良の五男・直隆を保坂家に呼び戻し皇帝に就かせようと画策するものの、直隆はその意に従うと見せかけ、帝位に就いた途端側近を御宿家家臣で固めてしまう。ここに保坂朝の遺臣は、国内に混乱をもたらしたとして全員が追放または処刑された(御宿の変)。直隆は井の国号を廃止し、かつての瑞洲国号を復活させた。 御宿朝瑞洲 の建国である。 御宿朝瑞洲 御宿朝 Mishuku dynasty 首都 京(瑞京府) 公用語 瑞州語 皇帝 1391年 - 1399年 御宿直隆 1449年 - 1453年 御宿尚徳 建国 1391年 別称 瑞洲 国姓 御宿 御宿直隆(1391~1399) 御宿仁隆(1400~1414) 御宿正隆(1415~1427) 御宿有隆(1428~1432) 御宿知徳(1433~1440) 御宿克徳(1441~1448) 御宿尚徳(1449~1453) 14世紀から15世紀までの時期には社会の中世的な分権化が一層進展したが、政争による皇帝政権の衰退を決定機として15世紀後半頃から僭称大名勢力による地域国家の形成が急速に進んだ( 僭称戦国時代 )。この僭称戦国大名たちは、もともとは封建制によって各地を領有した武家であり、その武力を背景に、自国こそが正統な統一国家であることを主張した。この地域国家の形成は中世社会の再統合へと繋がった。この激動の中で皇帝家である御宿家は、僭称大名である下坂直孝によって1453年に滅亡した(下坂大逆事件)。当時の皇帝であった尚徳帝はまだ7歳であり、補佐すべきである公家たちは誰が実権を握るか抗争しており、腐敗していた皇帝政権に見切りをつけた下坂によって周りの公家ともども皇帝は打ち倒されてしまったのである。尚徳帝は自害に追い込まれた。最終盤では権力はほぼ無きに等しい状態であったものの、皇帝家というストッパーを失った瑞洲国内ではますます戦乱が拡大し、16世紀末に古海武利によって瑞洲の統一政権( 笠置幕府もしくは古海幕府 )が樹立されるに至り、近世へと移行した。 僭称大名家・僭称王家 なお、地域名はあくまでおおよその目安である。 + ... 西海地方 黒河朝 西宮朝 藤朝 仲朝 河邊朝 野木朝 大野木朝 渉朝 北橘 北西地方 常盤幕府 蝦名朝 茨城朝 小谷朝 中屋敷氏:朝廷を名乗らなかった、珍しい大名家の一つ。 西海枝朝 秦野幕府 鳴神朝 東海地方 間崎朝後嶺 後八重尾朝 三勢氏:朝廷を名乗らなかった、珍しい大名家の一つ。自領は本家である古海氏の飛び地領であると認識していたようで、本家筋に配慮していたと思われる。後に古海幕府の支配中枢へと組み入れられる。 後鳳:嶋海国答志郡付近にあった、土着の武士層による一揆によって成立した国。今でいう選挙王政を採用。 波島朝 名張幕府 関崎朝 都甲朝 中央地方 後涼 鷲巣朝後衛 垣谷朝 吹上朝 大芝朝 古海幕府 射鷲朝 愛知氏:朝廷を名乗らなかった、珍しい大名家の一つ。 笠置幕府 前史 古海氏 設楽古海家:主流で、設楽家とも称される。自分たちでもその名乗りを使っていたようであり、古海武清が「設楽武清」と記名した書状が現在でも残っている。 八名古海家:八名家とも称される。 額田古海家:額田家とも称される。 渥美古海家:渥美家とも称される。 碧海古海家:碧海家とも称される。 三勢古海家:本司名氏から改名した頃に分家し、三勢国に土着し三勢氏・三勢家を名乗った。 大名家の中でも、御宿家や保坂家、小井戸家の生き残りを王に戴いて、大名自体は幕府を開き実権を握るという場合や、先祖に将軍家があると主張し、将軍家の復活を期して幕府を再興させる場合があった。後者の最もたる例は古海氏である。古海家の系図を辿ると、11世紀から12世紀の東西朝時代に幕府を開き、瑞洲東部を支配した熊谷氏にまで遡ることができる。また、井王朝に滅ぼされた熊谷利秋以降、征夷大将軍の位は誰にも与えられていないことから、戦国大名となった古海氏は後裔である自らも征夷大将軍の官位を引き継ぐことが可能と主張し、1510年頃から時の当主によって征夷大将軍を自称するようになる。誤解されがちであるが、この頃には既に「官位を授与する目上の存在」は国内に消失しており、古海氏や他の氏族が将軍家と名乗っても(王家の自称と同様)それは自称に過ぎず、意味を為さないものであった。しかしながら古海氏が勢力を伸ばすと、その実力を背景とした「自称」は外部からきちんと認められるものになり、また古海氏に官位の認定権が生じることとなった。こうして、後の幕府を支えていくこととなる、将軍家をトップとした官位体制が確立した。 古海氏は、元は熊谷氏の傍流であり、熊谷幕府時代には本司名氏(もとしなし)を名乗る幕臣の立場にあった。熊谷氏の本拠地であった参河国内に領地を有していたものの、国境の設楽郡などを有するにとどまり、あまり表舞台には立たない一族であった。しかし、その後の小井戸朝や保坂朝時代を巧みに生き抜き、15世紀まで家名を存続させていた。1512年、若くして設楽古海家の当主となった古海武清は、先祖が将軍家であり、後任者がいなくなったが故に、自らも将軍となる権利があるとして征夷大将軍を自称。その天才的な内政手腕と軍事能力を以て他国を次々と屈服させ、参河・紀山・嶋海を制した。武清は親戚一同をまとめ上げる能力にも秀でていたようであり、効果的に軍を動かし戦国の覇者となるために、それまで直接指揮を行っていた古海軍を方面ごとに分け、方面軍司令官には八名・額田・渥美・碧海の各家の当主(幼少の場合は代理)を据えた。しかし1534年、参河国豊邦において、些細な出来事で恨みを持った家臣・新岡信久に暗殺されてしまった( 豊邦の変 )。新岡は逃亡したものの、父親暗殺の報を受けた武清の嫡男・正武が参河国内に非常線を張り、あえなく捕縛、処刑された。 古海氏当主の座は正武が継ぎ、父親の方針を引き継いで対外領土拡大政策を採った。正武は非常に開明的な思想を持っていたようで、嶋海国の港が支配下にあるのをいいことに、重臣・浦谷重成を正使として欧州へ使節を送り、膨大な知識を入手した( 浦谷遣欧使節団 )。この使節団には欧州の見分や知識の入手以外にも外交交渉の使命があったようだが、不発に終わったようである。正武は静駿・筑紫・薩摩を平定している最中にも欧州の研究を行っており、家臣団ともども欧州の優れた軍略に驚き、自国に適合するように取り入れることを計画。この軍制・戦略改革は成功し、古海軍は瑞洲や欧州のいずれの戦略にも似ることのない、独自の軍制度を確立。精強無比の強さを誇る最強の軍へと変貌した。よく訓練され、優れた指揮官に率いられた古海軍は連戦に連勝を重ね、1587年に正武が病没する頃には尾治以南の南瑞洲や三勢国を支配下においていた。 前期笠置時代 笠置幕府 Kasagi Shogunate 首都 京(瑞京府) 公用語 瑞州語 将軍 1599年 - 1617年 古海武利 成立 1599年 別称 古海幕府 正武の病没後、家督は嫡男の次男・英武が継いだ。英武も父と同じく領土拡大政策を採り、間崎朝後嶺や後八重尾朝、鳴神朝と言った名門大名家を撃破し、1597年には北海半島以外のほぼ全土を掌握していた。しかし戦ばかりに明け暮れ、正室さえ取らなかった英武には当然として嫡子が無く、1598年に英武が膵臓癌(と思われる症状)で没すると後継者問題が急浮上する。 後継者問題で倒れた王朝はこれまでにも数多くあったため、重臣団は平和裏に後継者を確定することを誓った。会議の結果、碧海家に養子として出されていた英武の異母弟・碧海武利を設楽家に呼び戻すことで一致。武利はこれを快諾し、1599年に征夷大将軍への就任の儀を執り行い、政庁を京の笠置町に置いた。これを以って笠置幕府が正式に成立したと見做される。 中期笠置時代 後期笠置時代 19世紀中ごろに入り、欧米列強との接触が飛躍的に増えると、列強各国に対する他者意識の裏返しとしての「瑞洲」・「瑞洲人」意識がさらに強まり、ほぼ現代の「瑞州」・「瑞州人」意識と一致するまでに至った。大航海時代以降、米州各国が欧米列強の植民地とされる中で、瑞州が欧化政策を維持しつつ独立を長く保ったことは、後の国民国家意識にそのまま繋がる民族・国民意識の醸成をもたらし、結果として革命戦争以降の近代国家建設がスムーズに行われる基礎となった。また、この時期から瑞洲の「洲」の文字が、書き換え字である「州」に変わっていった。以前より「瑞州」表記は散発的に確認されていたが、時代の流れとして「瑞州」表記に置き換わっていったのはこの時代が初めてである。 共和制への移行 古海幕府は20代・275年もの治世を保っていたが、欧米列強からの文化流入や機械技術の伝授に加え、欧米列強の「市民自治」「共和制」の考えが輸入されると、「ただ一人の強いリーダー」の行う政治に限界を感じたのか、20代将軍・古海武広は「共和制瑞州」の構想を諸邦の首長たちに伝え、共和制瑞州の発展を願いながら、1775年に幕府の幕を自ら下し(市民政治還元)、臨時連邦政府が形作られ、共和制瑞州が本格的に始動するための準備を始めた。しかし共和制瑞州構想で触れられた、共和制のトップである大統領職を狙って、南東地域の旧藩主たちや公家の末裔たちが団結し、「独立宣言」を発して、参河・岡豆以東9州が 南瑞州共和連合 として蜂起した(1776蜂起)。彼らは大統領職に、中世の絶対王政君主レベルの権限があると勘違いしており、君主を話し合いで決めるものの、決まった後は政治のすべてをその君主や付属機関に委ねると解釈していたのである。その為、瑞州全土から希望者を募って大統領決めを行うまでは合議制として、南瑞州共和連合は明確なリーダーを定めなかった。一方、北西地域の首長たちは共和制・大統領制を正しく理解したのに加え、瑞州の風土では連邦制の導入が相応しいとし、諸邦を「州(シュウ)」として再編。また、1776年7月15日に初の民主的な大統領選挙(第一回瑞州大統領選)を行い、思想面での建国の父と呼べる古海武広を大統領に据えた。古海は諸州規約を制定し、国号を「 瑞州合衆国連邦 」と設定し、旧幕府軍や北西諸邦の兵を集めた近代化軍(瑞州合衆国軍)を組織。自分を総司令官、部下の武官を各方面軍司令官のポストに据え、南瑞州共和連合との全面対決に進んでいった。 東西戦争 開戦 十数年に渡る緊張関係の末、1791年に 東西戦争 (革命戦争、Zuish Civil War)が開戦。この戦争では瑞州史上初めて近代的な機械技術が主戦力として投入された。4月12日に東軍(共和連合軍)が西軍(合衆国軍)の前線基地(紀山-参河州境)である孝子峠の要塞を砲撃して戦端が開かれた(孝子峠要塞の戦い)。古海は合衆国に残ったすべての州に孝子峠要塞などの奪回を呼び掛け、軍事的な協力を要請した。 4月19日には古海が東部海岸線の海上封鎖を宣言した。この封鎖は大西洋岸から太平洋岸までにわたり、東部経済を締め付けていった。この海上封鎖を解かんと、共和連合海軍による散発的な攻撃や砲撃が合衆国海軍に向け行われたが、いずれにおいても封鎖を解くことはできなかった。 戦闘名称 月日 州 勝者 特記事項 孝子峠要塞の戦い 4月12日 紀山州 東軍 洞海湾砲戦 4月19日 筑紫州 西軍 葦毛湿原の戦い 4月19日-21日 参河州 西軍 西部戦線 東西戦争は広大な地域で戦われたが、主な戦線としては西海岸の西部戦線と、中央山脈以西の東部戦線とに大別することができる。そして、東西戦争の最も主要な戦線であり、規模の大きな戦闘が繰り返し起こったのは西部戦線の方だった。これは、首都である瑞京が存在する西海岸の方が開発が進んでおり人口も多かったうえ、西部の中心都市の磐田市・東部の中心都市の御陵下市のどちらもが西海岸側に位置していたためである。さらに、両都市間に険しい山岳などの障害になる地形も少なかった。また、共和連合と合衆国連邦どちらも瑞京を首都として定義し、自然と両軍ともに相手の中心都市や瑞京をめざし進撃することが多かった。こうして、西部戦線(特に瑞京付近)で激しい戦いが多く繰り広げられることとなった。 孝子峠要塞の戦い以後、両軍共に軍隊の創出で大わらわであった。古海大統領は反乱軍を抑えるために7万を超えるの志願兵の召集を命令した。発足したばかりの陸軍には、十分な戦力といえるのは16000名の兵士程度しかいなかったのだ。陸軍は旧幕府軍からの古参兵である年長の玉田克己中将に指揮されていた。共和連合の方は、一握りの旧幕府軍士官と兵士、そしてかつての民兵団の一部が東軍に加わった。東軍の体系は各州によって整えられた。しかし、強い中央政府に対する各州の嫌悪感で助長された連合国防衛軍の分散した性格は戦争の間の東軍の弱みの一つであった。 東部戦線 西部戦線とは地理的懸隔もあってやや独立した動きとなっていたが、戦争後半では西部との連携が重要な課題となった。 西部戦線は当時もその後の歴史的な整理の段階でも、東部戦線よりかなり多くの注目を集めていた。これはその対立する両軍の主要都市が近く西部の大都市に大きな新聞の発行所が集中しており、西部で名声を博した人物がいたからでもある。このために西軍が東部で東軍を叩き、東部の領土を侵略していったことは、ほとんど気付かれないままであった。 孝子峠要塞の戦い後、紀山州から出撃した梶原和弘少将率いる西軍(紀山軍)は紀山と参河の州境である孝子峠要塞の奪還、及び弓張山地の突破を目指しており、第一次参河方面打通作戦を発動するに至った。すでに弓張山地の葦毛湿原を占領していた紀山州軍は、勢いそのままに孝子峠要塞の周辺にあり、東軍(参河軍)の兵站ルートの経由地点であった竜ヶ岩洞砦や石巻山要塞に攻め寄せ、これを陥落させた。 竜ヶ岩洞砦や石巻山要塞で撃破され、後退する東軍を押しとどめたのは米川啓之将軍率いる援軍であった。米川は旧幕府軍の陸軍歩兵奉行(少将クラス)であり、作戦指揮に精通していた。撤退してきた東軍と援軍とを合わせ、指揮系統がボロボロになっていた参河軍を再編し、的場峠に築かれた防衛ラインを用いて的確な防衛線を行った(的場の戦い)。西軍はこの堅固な防衛ラインを突破できず攻めあぐね、かといって引くわけにもいかず、自軍も防衛ラインを構築し相手の攻撃に備えた。的場の戦いにおいて、結局両軍は散発的な戦闘を五か月も繰り返したが、どちらも防衛ラインを突破するわけでもなく、結果として梶原が他地域の援軍に紀山軍を回すために撤退し、引き分けに終わっている。 戦闘名称 月日 州 勝者 特記事項 第一次参河打通作戦 竜ヶ岩洞砦の戦い 4月25日-26日 参河州 西軍 第一次石巻山要塞の戦い 4月31日-5月2日 参河州 西軍 的場の戦い 5月15日-10月14日 参河州 引き分け 第二次石巻山要塞の戦い 6月24日-25日 参河州 西軍 防衛ラインの隙をついて東軍が石巻山の奪還に乗り出し、奇襲攻撃を行ったが、西軍が防衛に成功。 終戦 1795年に東西戦争は合衆国の勝利で終結し、静駿講和条約が結ばれ、共和連合は解体された。しかし、南瑞州共和連合が、不勉強の勘違いによって蜂起した国家であったことから「南瑞州人は無知、無学」という偏見が生まれ、南東地域に対する地域差別はその後も続くことになる。 1797年12月17日には、連合規約に代えてさらに中央集権的な合衆国憲法が激論の末に制定される。1799年6月4日に発効され、同年に「やることは全て終えた」と古海は6選もした(というよりあまりにも古海が人気であり、市民が大統領選をボイコットした)大統領職を辞すが、結局は第8回大統領選(ボイコットにより第2回~第7回は『失われた選挙戦』となった)でまた担がれ、78歳の高齢で大統領に当選した。これより高齢の大統領はこの後には生まれていない。 瑞州は、「自由」と「民主主義」を掲げたことから、近代のの共和制国家としても、当時としては珍しい民主主義国家であった。 帝国主義 先述した通り、大航海時代以降、米州各国が欧米列強の植民地とされる中で、瑞州が欧化政策を維持しつつ独立を長く保ち、政権の交代にも(曲がりなりにも)成功したことは、後の国民国家意識にそのまま繋がる民族・国民意識、そして愛国心のさらなる醸成をもたらした。 瑞州内戦
https://w.atwiki.jp/guiltycrown/pages/60.html
general headquarterの略語。 一時無政府状態になった日本の治安維持とアポカリプスウィルスの撲滅を目指して組織された国連部隊。 東京のお台場沖合の人工島「24区」に本部が置かれている。
https://w.atwiki.jp/minsyuto/pages/14.html
同じ9月にスタートした内閣を時系列で比較 2008麻生内閣 2009鳩山内閣 9/16 鳩山内閣成立 9/17 自由が丘のすし店「鮨幸」 9/19 午前私邸来客無・午後夫人と高島屋で買い物14 06~ 9/20 午前私邸「エスプリ・ド・ビゴ」で買い物。神宮前「おけいすし」 9/21 米国へ 9/24 麻生内閣成立 国連総会出席、試算もなしに勝手にCO2削減25%を世界に発信 年金関連法案提出 三六協定見直し案提出 9/25 国連総会出席 9/27 大相撲秋場所を観戦、両国のちゃんこ料理店「巴潟」 9/29 所信表明演説 恵比寿西居酒屋「もつ焼き 縄のれん」「さいき」 第一次補正予算案提出 テロ特措法改正案提出 サモア大地震発生も知らんぷり↓ 9/30 夫人とパークハイアット東京ホテル宿泊「自宅は電話で集中できない」 10/1 デンマークでIOC総会、結果を待たずに退場 10/3 「竹島は日本の領土」閣議決定 夫婦でファッションショーに参加 10/5 台場の韓国料理「宮廷焼肉 千の花」でイ・スンヨプと会食 10/6 NYタイムスの捏造に対し反論 箱根ホテル「小涌園」で民主党参議院議員らとの懇親会 10/7 米国に資本注入を促すよう指示 10/8 補正予算に関する3案件の可決 台風来ても官邸に行かず対策なし 19 26奥沢の日本料理「魚こばやし」 10/9 夫人と共に韓国、中国訪問 10/10 北朝鮮制裁延長を閣議決定 日中韓首脳会談 夫人は北京市内のショッピングセンターで買い物 10/11 介護など雇用創出の本格検討 東京・用賀の京料理「本城」 その後、用賀神社例大祭に参加 10/12 外準活用の支援表明=IMFC 北朝鮮がミサイル5発発射も把握せず 天皇皇后両陛下と夕食会 10/13 韓国報道でミサイルを確認「事実なら大変遺憾。それ以上のコメントはない」 北ミサイル問題の比較 麻生太郎の場合 2009年4月5日(日) 麻生太郎首相動静より http //blog.livedoor.jp/theprimeminister/archives/790148.html 北ミサイル発射・4月5日ドキュメント(読売新聞)より http //www.yomiuri.co.jp/feature/20080115-899562/news/20090406-OYT1T00096.htm 08:34~09:16 首相、公邸周辺をウォーキング。 11:31 防衛省が、北朝鮮のミサイル発射を発表 11:33 政府が「首相指示」として、〈1〉情報収集態勢の強化〈2〉国民への迅速な情報提供――などを発表。水産庁は全国の漁業無線局などに対し、日本近海で操業中の漁船の安全確認を行うよう要請 11:35 首相、公邸発。 11:36 首相、官邸着。 11:37 官邸エントランスホールで報道各社のインタビュー。「北朝鮮から飛翔(ひしょう)体が発射されたが対応は」に「まずは安全の確認、情報収集の強化、そして情報の迅速な提供を今指示したところです」。 11:38 首相、内閣危機管理センターへ。 12:08 同センターを出て、12:09、執務室へ。 12:29 同室を出て、12:30、内閣危機管理センターへ。中曽根弘文外相、浜田靖一防衛相、河村建夫官房長官との情報集約会議開始。 12:54 同会議終了。 12:59 同センターを出るて、13:00、執務室へ。 14:06 執務室を出て首相会議室へ。安全保障会議開始。 14:27 安全保障会議終了。 14:28~30 与謝野馨財務・金融・経済財政相。 14:31 首相会議室を出て執務室へ。 15:13~20 河村官房長官。 15:24~26 官邸エントランスホールで報道各社のインタビュー。「北朝鮮の飛翔(ひしょう)体発射への対応は満足いくものだったか」に「今回の一連の行動の中にあって、国民が冷静に対処していただいたことに関しては、感謝しています」。 15:27 官邸発、15:28、公邸着。 15:48 公邸発。 16:13 東京・高輪のホテルパシフィック東京着。同ホテル内の理髪店「理髪佐藤」で散髪。 17:33 同ホテル発。 17:50 公邸着。 鳩山由紀夫の場合 2009年10月12日(月・祝) 鳩山由紀夫首相動静より http //s03.megalodon.jp/2009-1013-1007-25/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091013-00000000-jij-pol 10:00 東京・田園調布の私邸。朝の来客なし。 午前中は来客なく、私邸で書類整理などして過ごす。 午前中、北朝鮮は2発のミサイルを発射 午後も来客なく、私邸で書類整理などして過ごす。 午後は3発のミサイルを発射 15:24 私邸発。 17:59 皇居着。幸夫人とともに、天皇、皇后両陛下と夕食。 20:35 皇居発。 21:03 私邸着。 24:00 現在、私邸。来客なし。 翌13日午前 韓国の聯合ニュースが12日、 北朝鮮が地対地短距離ミサイル5発を発射したと報じたことについて、「報道は聞いている。これが事実としたら、大変遺憾なことだと思うが、今、それ以上のコメントをする状況にない」 これは、麻生内閣の時は事前に発射の情報があったのが大きいですが、それでは続いて両内閣の“その後”の対応も比較してみましょう。 麻生内閣の場合 4月05日 北朝鮮がミサイルを発射 〃 高須国連大使が、国連安全保障理事会の緊急会合開催を要請 〃 北京の「大使館ルート」を通じ、北朝鮮側に厳重に抗議 〃 日韓外相電話会談 〃 日米外相電話会談 〃 日中外相電話会談 〃 日仏外相電話会談 〃 日メキシコ外相電話会談 〃 日露外相電話会談 〃 日英外相電話会談 4月06日 日豪外相電話会談 〃 日ベトナム外相電話会談 4月08日 日韓外相電話会談 〃 日露外相電話会談 〃 日米外相電話会談 〃 日中外相電話会談 4月11日 日中首脳会談 〃 日韓首脳会談 4月12日 日中韓首脳会議 4月13日 日モンゴル外相電話会談 4月14日 国連安全保障理事会が、北朝鮮によるミサイル発射に関する議長声明を発出 鳩山内閣の場合 10月12日 北朝鮮がミサイルを発射 特になし。 ※外務省HPにも特に記載なし 日本前向き新聞より引用 http //blog.livedoor.jp/maemuki_news/archives/801716.html 軽すぎる? 首相の夜日程 著名人との会合続々 夫人同伴も10回 産経 2009.10.1 ファッションショー出演、プロ野球選手との会食-。就任1カ月の鳩山由紀夫首相の執務終了後や休日の過ごし方をみると、著名人や民間人との私的会合が目立つ。「官邸は息が詰まる」と度々こぼす首相にとってストレス解消法のようだが、「軽すぎるのでは」と冷ややかな声も。 「バー通い」で批判を受けた麻生太郎前首相は秘書官らと打ち合わせするケースが多く、メディアに分からないよう与党幹部らと密会することも度々だった。 ※以下広告